2016年02月15日

「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」と「カラー・オブ・ハート」

久々にガンダムにはまっている。
「鉄血のオルフェンズ」という物語だ。骨太のアニメだ。というか、子供に分かるのかというくらい、戦争の暗部もでてくる。第一ガンダムそのものが、活躍しているのがわかりにくい。人を中心とした物語だ。
火星でしいたげられた子供たちが、生きるために改造手術を受けている。そして大人たちの勝手な行動により、自分たちで生きていくことを選択し成長していく物語だ。
格闘ロボットアニメを期待している子供たちには難解だろうなと思う。
物議を醸し出したのは、2話くらいにあった子供が負けた敵の将校をいとも簡単に銃殺してしまうシーンだ。実は、ここに子供たちが置かれた環境や、感情の原点があるのだが、世のおばさまたちは黙ってはいなかった。
なんという残酷なアニメなんだろう。こんなものは子供に見せてはいけないわ。である。
そりゃ1シーンだけ見ればびっくりもするだろう。でも、考えても見てごらん、コナンだって、相棒だって、殺人シーンだけ見たら同じような物なのである。
むしろ、このガンダムの方が戦争というものの悲惨さをよく表している。主要メンバーが死んでいく。これは悲惨である。そとて主人公たちは涙を流すのだ。必死で生きようとする姿に、心が揺さぶられる。
最初に語どもが銃殺した将兵はのちに回想でもでてくる。彼らは良き大人であり、生きている人たちなのだ。

同じような時期に作られたガンダムに「Gのレゴンギスタ」というガンダムがある。見比べて分かるのだが、こちらは子供番組に見える。なんだかご都合主義的な感じがする。最初の頃にやはり人が死ぬのだが、それがショッキングでもなんでもない感じなのだ。いまのところDVDを2つ見ただけだが。初代ガンダムの方がよほど戦争の暗い影をよく表している気がする。

銃殺シーンにな非難が出たころに、ネットのニュースを見ながら「けっ、最初っからきちんと見やがれ」と思ったものだ。おばさんたちの主張が正しいのなら(おばさまと言っているが、オジサマなのかもしれんが)この世の中のテレビ番組はすべてお花畑のような物語になってしまう。
それはレイ・ブラッドベリの描いた華氏451度の世界だ。
言論統制の世界と同じだ。
もし、暴力描写が暴力を誘発するのだとしたら、なぜ世の中には正しいことを分別できるはずの大人が罪を犯すのか。サギや、犯罪をする人々がみんなアニメフアンだとでもいうのだろうか。
ふと、思い出した映画がある。「カラー・オブ・ハート」だ。
平和そのものの白黒のあるいファミリーテレビドラマの中に、現代の子供が紛れ込む。彼らが人間らしく生きようすすると、世界に色がついていく物語だ。私の好きな映画である。
うざうざいうおばさんどもに(あるいはオジサマたちに)この映画を見せてやりたい。そして、もう一度最初から、「鉄血のオルフェンズ」わ見直してくれと。戦争の悲惨さや、人の決意や努力が見えてくるのではないかと。
機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 1 (特装限定版) [Blu-ray] -
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カラー・オブ・ハート -
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posted by まっちゃん at 13:01| 福井 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画・DVD | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月13日

成人式って誰のため?

成人式のニュースをテレビで見ていた。違和感を感じるのは、みんな成人式を「自分のための式」だと考えていること。だから自分が好きなようにすればいいと考えている。
成人式は確かに自分のためではあるのだが、その意味合いは違っている。
「成人して、自分が社会にとって責任ある人になったことを示す式」ではないのか?
自分のことだから自分勝手にやればいいというのは、成人式そのものの意味を取り違えているように思えてならない。
自分は自分勝手な子供ではなく、社会の中で生きていくことを決意し、認められるための式ではなかろうか。だから、きちんと正装し、社会に対して自分は子供ではないことを示さなくてはならない。

結婚式前日を独身最後の日として楽しむように、馬鹿をやりたいのなら成人式前日にしたらどうだろう。そして、子供っぽいことはこれで最後にして、成人式にはどこに出しても恥ずかしくないきちんとした服装と言動を示すのだ。そっちの方がかっこいいと思うのは、私だけだろうか。

実際には成人式過ぎたって子どもは子供である。大人になれるのは人生を高みから見ることができる40代や50代かも知れない。男はずつと子供のままかもしれない。それでも分別はつくというものだ。

それでも、成人式というのはどこへ出しても恥ずかしくない覚悟を決めるのだと思う。とりあえずデモ。中身は子供でも。
つまるところ成人式は社会のために行われるのだ。決して個人が好き勝手する場ではない。社会のために行って、それがひいては自分のためになるのだと思うのだが。
posted by まっちゃん at 12:26| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月16日

同性愛者は異常か正常か 

岐阜県議会で「同性愛は異常」という発言があったそうである。大半の人はこれにひどいと言うのだが、その本心はどこにあるのだろうか。
 オネエと呼ばれる人がテレビで活躍し、同性愛という言葉の垣根は低くなった。また、BLという言葉で知られる少年の同性愛にうっとりする腐女子もいる。だからと言って、同性愛が認められたわけでは実はないと思う。
 そういう差別はよくない、あるいは悪口はよくないと思うから「ひどい」であって、そこにはまだ他人事だという意識もあるのだはないか。自分にはかかわりのない世界だけれど、人を差別するのはよくないということで言っているのではないのだろうか。それはそういう世の中の流れの中で言っているに過ぎないかもしれない。
 私は、ある意味「異常」だと思っている。それが正常ではないという意味で。あるいは異常というよりは異端と言っていいのかもしれない。こっちの方が近いかもしれない。

 歴史的に見れば、同性愛は古くからあるようだ。昔から武将はそういう傾向があると聞く。織田信長も近くに美少年を置いていたし、(もちろん、結婚もしているわけだが)それが当たり前でもあった。徳川家光なども男が好きで、そのために世継ぎが生まれず春日局は苦労する。男っぽい尼さんを還俗させて連れてきたりして、大奥なども創り上げてしまう。
 生物学的に異常だというのも正確には当てはまらない。
 動物に同性愛がないかというと、実はそうではなく少なからずそういうものもいるらしい。ただ、そういうのばかりだと種は絶滅してしまうので、やはり特殊な結果だと考えるしかないだろう。
 実際にどれくらいの人がいるのだろう。ある同性愛の人は13%と言っていたけれど、調べてみるとそれほどは多くない。4%というところもあるし、おおく見積もって10%というところもある。
 それでも100人に4人はそうだと言われても実はピンと来ない。私が生きてきた中で、そういう人に出会ったのはたった3人である。もちろん、新宿などのそういうお店関係を覗いた数字でだ。その人たちも、子供がいたり結婚していたりするから、両性愛というものだったかもしれない。感覚的には多くない。本当に困るほど多いという感じはしない。大体そこらにいたとしても、気がつかないし、それを公言しなければわからないし、それが重要な問題になっていないのだと思う。病気や遺産や、法的な保護という意味で困っているかもしれないが、それはそうならないとわからない事だし、私たちにはそれを察知することもできない。
 そういう問題をそのままにしていいのかといえば、本当はダメなんだろうが、他に大変な問題や、自分に関わる大変な問題があるのに、自分にかかわりのないことにとやかくも言わないのである。世界は同性愛だけで回ってはいないのだ。

 私も、実は同性愛であろうが異性愛であろうがあまり関心がない。変な目で見るとか、そういうことはない。相手が同性愛者であっても関心がないので普通に接している。それでいいんじゃないかと思っている。相手も何か特別に思ってほしいわけではなくて、普通に接してほしいのだろうと勝手に思っているのだが。私は女性が好きだし、それだけで十分じゃないか。

 「異常」発言があっても、それがさほど大きな社外問題化しないのは、実はそんなことはどうでもいいと思っている人が多いからではないだろうか。自分にかかわりがないので、「ひどい」と倫理的に考えても、必死で抗議するほどのことではないのだ。異常かと言えば正常ではない、やはり異常であると考えても仕方がない。
 
 同性愛者たちは必死で自分たちの権利を主張する。それは当然と言えば当然。でも、そこに違和感がある。
 自分たちを認めてほしいという気持ちはわかる。でも、現状は異端であり、社会システムがまだそれに対応してはいないのが事実。
 4%であっても、社会的システムは0%。少数派ですらないのが現状である。渋谷区がやっと、証明書を出すに至った。それで、生命保険会社が、受取人を同性でも出せるようにした。で、同性愛の人たちはそれっとばかりに自分の権利を主張しだしたのである。早くしろというわけだ。あなた方の会社がこう言った。だからとっととやれ。
 面喰っているのは、その生命会社の人たちではなかろうか。
 また、どういう風に進めるのかは前例がない。上からのマニュアルがない。あったとしてもそれを理解し、現場で使いこなすには時間がかかる。それは、新しいことなのだから仕方がないことなのだ。
 渋谷みたいに証明書があればと言われたと聞いた。それは当たり前だろう。今までのように血縁者ならすぐに解ることだったのだ。

 考えてみれば、けっこう大変なことなのだ。いままでの社会ルールで夫婦というものは実に解りやすい形なのだ。それでもそういう事実がなく保険金詐欺のようなことは行われていただろう。偽装にしろなんにしろ、結婚しているという書類を作らなくてはならない。女性だったら結婚したということで自分の戸籍も傷がつく。そういうリスクもあるのではないかというのは素人でも考えられる。もっとも、いろんな方法があるのだろうが。
 でも、同性愛だというのどうしたら証明できるのか。同居しているとどう証明できるのか。ルームシェアとはどう違うのか。難しいことだ。
 たとえば、誰かがなくなったとして保険金の請求が来る。今までは奥さんとか指定された遺族だろう。ところが、全くの赤の他人が受取人として名乗りを上げる。どう証明できる? 同性愛でしたと言われたとして、それで納得できるのか? 渋谷みたいな証明書でもあればまだいいのかもしれない。でも、それもない場合はどうするのだろう。素人の私でも、不思議な気がする。もっとも、今までだって受取人が血縁者でない事なんかもあるのかもしれないが。
 そういったいろんな問題をクリアにしていく必要すらあるのではないか。

 私はある同性愛者に、そういうこともあるのでのんびりと構えたほうがいいんじゃないかと言った。そんなに宿世に物事は進まないから。特に生命会社が同性愛者を認めたとしてその手続きが末端にまですぐに来ないよと。同性愛者のケースは失礼だが、圧倒的に少数であるはず。だって始まったばかりなんだから。何十年も血縁というルールにのっとって蓄えてきたスキルが役に立たない。また、事務の人間が研修を受けてやっと動き出すものなんだと。
 すると、「あなたはわかっていない」「あなたは保険屋か」「少数派こそが多数派なんだ」と分からない言葉をいただいた。
 会社がするって言っているんだから、すぐに対応しろ。というわけである。
 いろいろあるんだろうから、少しくらい待てばいいんじゃないかという言葉は、親切でもなんでもなく、アドバイスでもなんでもなく、火に油を注いだだけだった。
 ああ、心配したのに不快に気持ちになったなというのが正直な感想だ。
 もう、この人たちとは関わらないだろう。

 自分こそが正しいと凝り固まっているのだろうな。
 だから、人のことはどうでもいいわけだ。自分は正当性を主張して止まないのに、相手の意図や言葉を理解していない。自分たちが、虐げられてきたとすることと同じことを自分たちがしているわけだ。
 やれやれ。
 もっと、純粋で、もっと大変な問題を抱えている人もいる。
 あなたが抱えている問題は、そんなに世の中に人にとって本当に大問題なのか?
 非難すべきことであるのか?
 そんなに人生が不満なのか?
 
 この人たちが、理解を得られない、孤立しているとかいうのは、この人たちの方に問題があるのだという気がしてきた。こういうことたちが声を上げればあげるほど、ずれは大きくなる。その人たちが問題だということすべてがうさん臭くなってしまうのである。どんなに正しいことを言っていても、味方はいなくなる。同じような考え方をする人しか集まらない。

 声を上げるものは、注意深く耳を澄ませなくてはいけない。

 ステキな同性愛というか、性同一性障害の人を知っている。話したことはないけれど。彼(彼女)が一生懸命に仕事をしているところを見たことがある。私は、その仕事場でほかの人に用事があって話していたのだけれど、彼(彼女)はきちんと気を使ってくれて、お茶まで出してくれた。そして彼(彼女)は、自分の仕事(汚れる男っぽい仕事なのだが)に集中していた。
 また、ある日。彼(彼女)はイベントで自分からメイド服を着て通りに出ていた。案内をしていたのだ。にこやかに笑いながら。少し大柄で、みるからに男性なのだが、その雰囲気と笑顔は女性らしさがあったし、なによりも輝いていた。自分が解放されていたのだろう。
 彼(彼女)が文句を言っていたところを見たことがない。そして、職場の人たちはみんな彼(彼女)のことを理解し受け入れていた。そして僕にも、そういったことをきちんと説明し、不思議がらないように教えてくれたのだった。
 そういう人たちは自分が異常であることを受け入れ、それが自然とであると受け容れ暮らしているのだろうな。周りの人もそれが当然のように受け入れていた。
 ある日町中で、数人の人と一緒に笑っている彼(彼女)を見たことがある。ちゃんと女性の服を着ていて、それはとても似合っていた。
 彼(彼女)はとても幸せそうに見えた。
 いろいろ問題も抱えているのかもしれないが、彼(彼女よよなら周りも助けてくれるだろう。
 男であれ、女であれ、幸せは自分の心が作るものなのだ。
 不満だらけで暮していては、それさえ逃がしてしまうのかもしれない。


 
 
posted by まっちゃん at 18:33| 福井 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月19日

予言のようなもの。

予言めいたものといっても、預言者じゃないので当たるのかどうかは問題じゃないとして、ふと思うのだ。
 インターネットがここまで発達してきた意味とは何だろう。

 日本の江戸時代や、インカ帝国を思い出す。文明がある一定の基準で飽和してしまった状態。それは平和であり、(そりゃ犯罪はあるだろうが)そこに生きている人々にとってはそれで満足いく状態だったに違いない。
 そりゃ、他の大きな力が入ってきた時は、滅んでしまったり揺らいでしまったりするわけだが、その文化・文明がそこで完結している分には、とてもバランスが取れていて長く平和となる。
 インターネットとは、情報を共有化することによって、文化文明を飽和化していくのではないか。新しいものが生み出されないというのではなく、強大な共通文化圏みたいなものを作り出せるのではないかということだ。
 マンガならおなじみかも知れない。

 昔の人々は、自分の知る世界しか知らなかった。当たり前だが、新しい世界はひとづてにきき、そういうものがあると認識するしかなかっただろう。興味がなければそれで終わり、自分の世界で完結する。しかし、興味があれば自分の世界を壊し、飛び出て新たな自分の世界を広げていく。
 それは国家でも同じで、小さな島国のイギリスが世界の覇権者となった。世の中は帝国主義となる。新しい世界を手に入れることで、自国の領土を広げていく。日本も帝国主義だったそうな。そして、中国こそうち夕の中心とする中華思想もまた、同じようなもの。
 そこには軋轢が生まれ、戦争が生まれる。第1次世界大戦もレーニンがそういっている。また、現代で言えばISがイラン戦争から生まれたと言われている。イラン戦争もまた、利権が絡んではいなかったか。
 もともとはユダヤ教とイスラム教の対立。それから、イスラム教内の対立。そこに欧米が干渉することでそれぞれの国の思惑が絡む。
 そして、その結果ISが生まれ、火の粉は一地域だけでなく、世界中に広がりを見せている。
 その帝国主義的な考え方はまだ、世界中にある。好んで紛争の種にしなくてもいいと思うのだが、中国も勢力を拡大することに一生懸命。
 だが自国では少数民族への弾圧によるテロがあり、一人っ子政策によってゆがんだ人口ピラミッドが生まれ、超高齢化に悩む。頼るべき若者は小皇帝であり、自己中心的であり、自分の利害には厳しく考えているだろう。国をまとめようとして、長老どもが戦争を匂わせとまとめようとするが、戦争という古い手段でまとめ上げるのは難しいのではないか。
 中国は局地的な戦争はするかもしれないが、ある程度自分たちに有利であればこだわらないのではないか。
 次の世代の指導者が、どこまで今の路線を継承するだろうか。内需を拡大することで、巨大な市場をもつ普通の国になるのではないか。そして、貧富の差というより、ある程度満足できればいいというようになるのではないか。
 帝国主義の終焉になる気がする。そこには、インターネットによる情報の共有によって飽和した世界へ脱皮していくような気がするのである。
 
 韓国は悲惨かもしれない。感情に支配され計算できないと言われているが、実は計算高いという話もある。ただ、一時の激情だけで乗り切れるかというと難しい。日本を抜いて高齢化社会であり、内需拡大にも人口が少なすぎる。このまま、世界情勢の中に翻弄されそうである。
 国が亡びそうになりながらも、反日を唱えるか、ある日突然親日になるか。
 ありえないかもしれないが、自治権を持ちながらも経済的には日本に吸収されて行くのかもしれない。何世代か後には、「もう日本でいいんじゃね」という若者が言い出すかもしれない。
 日本の経済圏の中に組み込まれ、お互いが行き来し、韓国の事業など日本が請負おう。ひとつの経済的な日本の州の一つのような立場になるかもしれない。北朝鮮はロシアに組み込まれるか、中国に組み込まれるか。国は自国の一家だけで運営できるようなものではないだろうから、どこかの経済圏の中に組み込まれる。
 それには、インターネットなどでの情報の共有や、一定ラインまでの進化が必要となるだろう。だから、金一族は、日本の天皇のような存在ということにして、経済的にはほかの国の動きの中に組み込まれる。
 台湾も、日本の州のような立場になるかもしれない。
 日本は、領土的には広がらないだろう韓国や台湾が経済的に結びつきが大きくなって、日本の州の一つのようになったとしても、自治権はそれぞれにあり、国として機能しているのではないか。ただ、今のような国という考え方が通用するかどうか。

 まぁ、そんなことを夢想するのだ。
 アメリカやヨーロッパはどうなるだろう。
 文化的に成熟した国はそこで完結する。ヨーロッパは歴史が深い分、飽和の度合いは高いだろう。アメリカもまた、国内の問題を多くはらみながら、完結していくだろう。
 中東などの紛争はどうだろう。介入することで自分たちに火の粉が降りかかるということであれば、欧米の介入の震度は浅くなり、そのうち強制的に終了させられるような気がする。それは悲惨かもしれないが、ずっと続くよりはいいのかもしれない。
 戦争なんかで、とやかく言う時代じゃなくなる。それはあとどれくらいかかるかわからないが。何度かの小競り合いや、大きな戦争になりかけながらも、結局のところ終わらせたほうがましということになるような気がする。
 戦争をすれば、何かが儲かるという時代ではなくなるような気がする。それでも武器商人たちは武器を作るだろうし、国は買うだろう。これがなくなるのはずっとあとかも知れない。

 インターネットにより情報の共有化が図られ、人々の意識が飽和状態に向かっていく。として、SNSはどうなるだろうか。
 反インターネットというような流れが生まれるかもしれない。インターネットのない方が幸せだという流れ。それが自然回帰の流れを産む。
 しかし、情報の共有化、利便性からネットの流れは変わらないだろう。人々の利用率そのもの、SNSや自己の切り売りは減っていくし、自己制限されるだろうし、敬遠もされるかもしれない。だが、どこに行けばどのような価値があるのだろうかとか、知識の共有化という部分では普遍的な価値を生む。
 かくて人類は巨大な意識に統一されるとは言わない。個人はあくまで個人。ネットの情報を利用する部分とねそれを必要としない部分に分けられていくのが普通の生活になるのではないか。
 たとえばロボットが店員になれるからと言って、すべてがなるわけではない。最初は都会。それから、広がりを見せるが、やはり人間の手に戻ってくるのではないか。そして、ロボット店員(ヒューマノイド型ではなく)は人でがないところや、さほど必要でないところに利用される。
 自動車の自動運転は、あるていど法整備がなされ、それが可能なところで発展するだろう。地区ごとの発展になる。日本なら全国的に可能だろうが、すべてはならないのではないか。たとえば速度の調整やルートの調整、衝突事故回避などが充実していくが、人の手によって運転するということが残るのではないだろうか。自動運転と手動運転の切り替えみたいなことがおこるかもしれない。
 すべてが機械の手にゆだねられるということは、ありえない気がする。自分の手で運転する、あるいは何かを自分の出て作り上げるというのは、価値あることになるのではないか。
 なんでも機械でできるが何でもはしない。種をまく温度湿度、タイミングはコンピュータが教えてくれるが、それにあえて従ず、そこから生まれる予測不可能なことに価値を見出すような。
 中世への回帰のようなものが生まれるかもしれない。ある種の贅沢として。
 人間は自分で出来ることは自分でする。それが、人としての尊厳を保つことになる。中世のお城の中の一室に、ネットでつながれたコンピュータがいる。そんなイメージかも知れない。
 
とまあ、こんなことを考えてみたのだが、当たるだろうか? 
posted by まっちゃん at 11:33| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月17日

神は違えど



ISに対してアノニマスが宣戦布告した。
どちらもテロ集団じゃないのか? ちがうのか?

ISは現実世界の中で、アノニマスはサイバー空間の中で。

方やアラーの神をあがめ(正確には違うんだろうな、いつしょにするなとイスラム教の方に叱られそう)、方や電脳の神を崇め、どつちも何をしでかすかわからない。
つい応援したくなる人もいるんだろうが、ちょっとまて。
自分たちが正しいと思えば何でもやっていいというのであれば、それではどちらも同じになってしまう。
それではいつか収集もつかなくなるし、正しいことのボーダーラインもなくなっていくような気がする。

アノニマスが攻撃するらしい。というニュースをただ事実として、知識として受け止めておけばいいだけなんだろうな。
posted by まっちゃん at 13:50| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 事件に思う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

FBのプロフィール画面騒動について思う。

FBのトリコロールプロフィールで、まだいろんな人がいろいろ言っているんだなぁというのが不思議。
まあ、考え方はたくさんあるし、それを表明したりできることだけでもその意味はあったんじゃないか。
そりゃ、ブームだと思ってやっちゃった人もいるだろう。でも、それだっていいと思ってる。私は。

中にはフランスだけじゃない、空爆によって罪のない人々まで殺されているじゃないかという人がいる。
その人たちには何もないのか。と思うのだろう。

というか、それすら知らない人がたくさんいるんじゃないか。
なぜ戦争が起きて、どんなに人がなくなっているのか、アジアの片隅じゃ実感しないのが普通。難民って何? そういう人だっていると思う。それより今の生活が大事とみんな思うだろう。

でも、今回の騒動でいろんなことに目を向ける人が出てくればいいんじゃないか。
そして、戦争だけでなく、いろんな問題があることを知るきっかけになればいいんじゃないか。

たくさんの人が、理不尽な暴力によって命を落とす。それを痛ましいとおもっても、だからどうしていいか考えない人はたくさんいる。
でも、痛ましいとおもうなら、せめてプロフィールをトリコロールにすることでそれを表明できるんだと変える人もいるだろう。

政治的発言をすべきなんじゃないかという人もいる。でも、そんなことまでわからない人が多いんじゃないか。
プロフィール画面を変えることで「私は理不尽な暴力で命を落とすことに反対です」と実は宣言しているのではないか。

世の中には立派なことを思いついて実行に移せる、すごい人たちがいる。でも、大半の人たちは、どうすればいいのかさえ思いつかないし、それを考えることを放棄している人が多いんじゃないか。
立派なことを、堂々と世の中に問える人がいる反面、言えない人がいる。
その人たちが、ほんのちょっとしたことを、自分の意思で表現できるのならいいではないか。
それが何かのきっかけになるのならいいではないか。

それほど、目くじらを立てることだろうか。
posted by まっちゃん at 10:10| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 事件に思う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月06日

三菱を思い出す。



なんか三菱を思い出す。
昔はカーメーカーと言えば、トヨタ、日産、三菱、だったけれど、アメリカマスキー法をクリアしたホンダが売れ、苦しくなった日産は名車が消え存在感が薄れ、三菱はトラックのタイヤなどの問題でだんだんブランドイメージが悪くなった。リコール隠しや、隠ぺい体質が嫌われた。パジェロといういい車もあったが、今の車の技術開発の流れに乗れず、いまだに低迷している。
いま日本の車メーカーといえば、トヨタ、ホンダ、マツダだろうか。トヨタを除いて、いやトヨタでさえも独自の考え方をして車を作ってきたメーカーだ。独自性がある。日産や三菱はそれをなくしてしまったような気がする。

フォルクスワーゲンは、ドイツの職人気質が創り上げた車というイメージがあっただけに、今回の不正はかなりブランドイメージが悪くなった。職人が作った一本気な車というイメージに傷がついた。ああ、なんだ金儲け主義の、小手先だったのかとフアンが落胆しかねない。
三菱自動車みたいにならなきゃいいかという気がする。

posted by まっちゃん at 12:11| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月08日

エンブレムについて思うこと

結局、あの手のデザインはなにかに似てくる。原案がどうであれ、最終的に似ていたらダメなんだ。早い者勝ちなのだ。
佐野氏の失敗は、そういうデザイン特性を説明しなかったこと。そして組織委員会に後の対応策を任せなかったことだろう。
似ている似ていないは、国民には分かりにくい。
一番の敗因は、あれがいいと思っている国民が少なかったことではないか。
どんな芸術作品も、結局は独り歩きするエンターティメントである。そういうものが欠けているのではないか。
理由はどうであれ、自分の理屈はどうであれ、それは関係がなくなる。それが必要なのは、その作品の理解を深めようとするときだけだ。
一番の敗因は、いいと思うオリジナリティを感じることがなかったからではないだろうか?
posted by まっちゃん at 06:31| 福井 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

エンブレムについて思うこと

結局、あの手のデザインはなにかに似てくる。原案がどうであれ、最終的に似ていたらダメなんだ。早い者勝ちなのだ。
佐野氏の失敗は、そういうデザイン特性を説明しなかったこと。そして組織委員会に後の対応策を任せなかったことだろう。
似ている似ていないは、国民には分かりにくい。
一番の敗因は、あれがいいと思っている国民が少なかったことではないか。
どんな芸術作品も、結局は独り歩きするエンターティメントである。そういうものが欠けているのではないか。
理由はどうであれ、自分の理屈はどうであれ、それは関係がなくなる。それが必要なのは、その作品の理解を深めようとするときだけだ。
一番の敗因は、いいと思うオリジナリティを感じることがなかったからではないだろうか?
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2015年09月01日

東京五輪エンブレム使用中止は当然だとおもう。



もともとの原案が違ったとしても、最終的に使われるものが他と同じデザインなら使えるわけがない。
そんなのデザイナーとしては当たり前。少し違えばいいなんて世界でもない。
みんなそこで飯を食っているのだから、オリジナリティーは重視されるのだ。
最初に見た感想はほかでも書いたけれど、ださいである。
いまさら、過去の五輪とイメージを重ねてどうする。
そして、文字を変化させるあの手の方式はやりつくされている。そういうものを選ぶあたりがセンスがない。これは、デザイナーのセンスでもあるが、選ぶ人のセンスでもある。センスのない人が、他からの圧力だけで選んだように感じてしまう。これは選ぶ大会委員会に透明性を感じないからだと思ってしまう。
大会委員会が、透明性をもっていくつかのデザイン案を示し、その中でもこれっという風に手順を追って発表せずにいきなりこれですって言われもという気がする。もちろん、ほかの作品を発表しないという理由もわかるのだけれど。

大会委員会が古い体質のままなんだなと思ってしまう。そして、そこにいろんな利権がからんで、儲けようとしているのだなと思われてしまう。国立競技場がいい例だ。はした金だという、そこがもうずれている。もともとコンパクトな大会を目指していたような気もするのだが。
本当に五輪を純粋に成功させようと考えているのか、そんな風にも思われてしまう。自分たちの都合のいいようにすればそれでいいと思っているのではないかとカンぐりたくなる。どうせ大衆は烏合の衆だからと、古い意識しかないのではないか。なんでも、上から言えばありがたがる世界ではなくなっているのだ。

あんな日本を感じることもないようなデザインをどうして選べたのか。選考にもっと透明性と、もっとセンスのある人をいれて納得させてほしいものだ。
posted by まっちゃん at 16:17| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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