2015年05月24日

追い込み漁よりもっと残酷なんじゃないか。



「2010年にメキシコ湾(Gulf of Mexico)で起きた英エネルギー大手BPの原油流出事故による石油汚染の影響で、海域のイルカが異常な肺疾患にかかり、高い確率で死んでいるとの研究報告書を米国の科学者らが20日、発表した。」
これって、どうにも出来ないんだけれど、追い込み漁より残酷じゃないのか。ついこの間も、アメリカでイルカや鯨の繁殖地で原油が大量に流出したというニュースがあった。

事故と文化とは違うかもしれない。
でも、追い込み漁のイルカは生き続け、事故の犠牲となったイルカは苦しみ死んでいく。
どうなんだろう。

事故だからといって許されるのだろうか。
人間は原発事故は許さない。では、イルカが原油事故はゆるさないといったらどうするのか。

なにか救済しているのだろうか。
追い込み漁よりも、私はこちらのほうが心が痛むのだ。
posted by まっちゃん at 10:29| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月18日

民主主義の限界を感じる選挙だった。



いいのか悪いのかわからない。
「民意を問う」という時点で、私は民主主義、あるいは数が正義ということにどうにも違和感を感じる。

勝ったほうも、結局は課題を突き付けられた感じで69万人が不満を持っていることを突き付けられたという。
同じように違和感を感じている人が多いということではないか。
69万人の民意はどこへ行ったのか。
ただ、選挙に勝てばそれでいいのか。
勝った負けただけで勝敗を決する問題なのだろうか。
そういう問題でないのならば、じゃんけんのような決め方でいいのだろうか。

たとえば総数100の選挙だとして、51対49でも、51のほうが勝ち。99対1でも、99の勝ちとなる。
その差はどうなのだろう。48という物の民意は活かすことはできない。

そして、99対1だとしても、99が間違い、1だけが正しいということだってあるのである。

じつは、それだけに政治家の責任は重い。
多数の代理人であるのと同時に、その1人の正しさを知る必要がある。そして、1の意見が正しいのであれば99を説得し理解させる必要があるのである。
自分の答弁まで人かに書かせたり、自分の質問さえ役所の職人に書かせたりでは責任があるのかとさえ疑問に思う。

代理民主主義だからこその厳しさがある。何でも、民意を問えばいいというものではない。
逆に民意を問うべきことを問わずに進める危うさもある。たとえば原発がそうだ。
徹底的な議論も情報開示もされていない。
フクシマの原発が廃炉になるまで40年かかる。なぜなのか。
今、原発が動いていなくても、金がかかり危険度は減らない。
日本で廃炉を進めているところの現状は知らない。まして、高濃度放射線廃棄物は行き先がなく、廃炉が進んでいったとしても今の原発の敷地に新たな仮の貯蔵施設が作られ保管されるだろう。日本の仮置きばはすでに70%埋まり、もう余裕はない。
そういった事実がきちんと公表されているのか。
そしても民意は60%は原発反対なのだ。

利権や一部の人だけの既得権益や、現状だけでのことを考えるのでなく、この国の未来をありようを考えてほしいと思いのだ。

別な話だが、橋下氏を見ていてふと思う。彼は政治家を辞めたがっているのではないか。それは以前から私がそうではないかと勘ぐり続けてきたことだ。ずいぶん前からかれはやめたいと考えていたのではないか。
政治家は、1度やったらやめられないとも聞く。
でも、人々の欲や利権に振り回されて疲れるという気がする。
権力という魅力があるのと同時に、人として擦り減っていくのかもしれない。
彼はやめて、自由な立場で発言していく立場を選ぶのかもしれない。そのほうが気楽なのかもしれない。それを選んでいくような気がする。


posted by まっちゃん at 11:09| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月16日

過去は取り返せない。だから、とどめておく必要がある。

韓国で「日本が王宮の気脈を断ち切るためソウルに造った建築を撤去」というニュースがあった。
反日に凝り固まった韓国では、日本が作った過去の遺物は目障りで仕方がないのかもしれない。ただ、あちこちにたくさんあるのですべてを壊しようがないらしいが。

これでふと思ったのが、タリバンによる仏像破壊。あるいはISILによる遺跡破壊である。
宗教や政治とそのきっかけは違うかもしれないが、やっていることは同じである。今の人が気に食わないから過去の遺物を破壊しようというのである。
なぜ、それがだめなのか。
過去の遺物というのは、歴史の生きた証人なのだ。
何が起こり、実差にどうだったのかを伝えていく。それは歴史であり、文化なのだ。それを残せるだけの文化があることが文化の高さを証明できる。そして、それは過ちを繰り返さないための道標であり、また、過去がどういうものであったかを示してくれる時の遺産であるのだ。

たとえば、アウシュビッツが保存されている。
ユダヤ人からすれば強制収容所後は痛ましい記憶でしかないだろう。しかし、それを遺す事で過ちを犯してはいけないという教訓と、残忍なことがここで行われたという記憶の証人となる。
また、日本には古墳時代から江戸時代のものが多数残されている。それは自分たちがどうやって生きてきたかの証人であり、それを肌で感じることの出来る貴重な資料だ。
たとえば大仏が造られたなら、その大きさを実感し、その頃の文明でこれを造るにはどれほどの財が必要だったかを考えることが出来る。国家を考え、文化がどう流れて育ってきたのかを感じることが出来る。
それが、私は偶像崇拝を認めないからと壊してしまったらどうだろう。
私たちの子孫は、それを知る機会を失ってしまうかもしれない。映像と文献は残るだろうが、もし、それが規制されてしまったら終わりなのだ。
自分たちに都合のいいことも悪いことも、後世に残せるのならば残していくべきなのだ。
それば学問という意味だけではなく、実際に足を運ぶことで、その時代を感じ考えさせることが出来るのだ。

エジプトのピラミッドがある。
私たちは映像で見るだけだが、実際に旅行してみれば川との距離、海との距離、ヨーロッパとの距離、風土、風のにおいに至るまで、そこがどういうところであったかが分かるのだろう。そして、どうしてこんなものが造られたのか、その技術や人の力、国力までをも考える源となる。

そういう過去の遺物を、ただ自分たちの感情や時の政権の都合だけで破壊しなかったことにするというのは悲しむべきことではないか。

日本の軍艦島が世界遺産に指定されるという。それを韓国が反対している。なぜか。朝鮮人が強制的に働かされていたところだからという。
もっと、時代的には指定されている年代がずれているし、戦時中に強制的に働かされていたといっても日本人もみんな同じだったわけで朝鮮人だけが被害者ではない。それに朝鮮もまた日本だった時代であり、日本人として同じように働く必要があったのだろう。それを隠したいから反対するならともかく、もし、自分たちが主張する強制労働という事実を後世に伝えていかなければならないと思うならば、世界遺産に指定されることは喜ばしいはずなのだ。一緒に保護されるべき証拠ではないのか。
むしろ、そういう歴史も一緒に保護してほしいと日本政府に頼むべきではないのか。
それを一時の感情だけでとやかく言うのは筋違いだし、文化というものの認識が低いのではないかとさえ思ってしまう。世界遺産や遺構というものが名誉だけだと思っているのか? そこには歴史を伝えるという意があるのではないか。
タリバンやISILと同じでいいのか?

ある友人が言った。漢字を捨て去った国だから仕方がないよと。
今の韓国の人は漢字が読めないらしい。だから、過去の歴史文献を読むことが出来ないともいう。
それほど過去を捨て去りたいのに、過去にこだわってばかりなのはなぜなのだろうとふと思う。



posted by まっちゃん at 08:39| 福井 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月11日

個人をさらす時代から、個人を守る時代へ

ツイッター、フェイスブックが減益しているらしい。閲覧数が減っているともいう。
ブームが終わったんだなとも思う。

とにかく最初は投稿することばかり考えていた。なにか、情報を発信したいと。でも、普通の人にそんなに発信する情報があるのか?
それで、個人をさらす、受けを狙ってさらす。本当はどうでもいいことまでさらす。

読者もだんだんつまらなくなっていく。
企業の宣伝ばかり、自分の宣伝ばかりでつまらない。そう思うようになる。

ヨーロッパで忘れる権利というのが裁判で認められたとかなんとか。これは探索結果に反映した話だが、どうだろうか。
自分の生活を切り売りしてまで、FBやツイッターに投稿することにもつながってはいないか。
そのうち、SNSをしないほうがかっこいい時代が来ると思う。
必要な時だけFBやツイッターに載せる。
身近な人が身近な情報をつたえるツール。
価値観を共有できる人が、行動に共感する。そのためのツール。

それは個人を守るために使われ、個人をさらすことは少なくなっていくのではないか。

現在も、ツイッターには閲覧者に制限をかけることができる。FBも、友達のみに情報を伝えることが出来る。そういう人から、「お誘い」という形でイベントが紹介される。
大きなイベントではなく、小さなあつまり。気心の知れた人が新しい友人を紹介する。

得体の知らない人とつながることは少なくなるのではなかろうか。

ビジネスモデルとしてはどうなるのかは知らないが、個人が疲れない程度の小さなコミュニティの連続体になっていき様な気がする。
posted by まっちゃん at 10:30| 福井 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月08日

右傾化といわれて思うこと。日本はもっとひどい時代を生きてきた。

いつもふと、思うことがある。
韓国が20万人の慰安婦だと言い出したり、日本が右傾化していると言い出したり。中国も日本が軍国主義が復活してると言い出したり、まるで日本はずっと昔から今に至るまで変わらないのだと思い込んでいるのではないか。

戦争でひどい時代を経験しているのは、韓国や中国ばかりではない。
日本の一般市民だってそうなのだ。

日本はアメリカやイギリスの軍隊よって徹底的に打ちのめされている。
日本を襲った空襲は無差別殺人であり、日本は焼け野原だった。
200以上もの都市が焼かれた。空襲警報が鳴れば、片田舎であっても防空壕に逃げ込んでいたはずだ。
100万人が命を落とし、970万人が被災した。働き手の若い男たちは戦地で命を落とし、残された子供や老人、女性が空襲で家を失った。
学校では勉強どころではなく、校庭まで畑にして食べ物を作っていたのだ。
満足に食べるものがなく、雑草まで食べたという。つらい時代だったと当時の人は言う。
勉強しようにも教科書がなく、先輩の教科書を手書きで写して学んでもいる。
女学校の生徒が山の中で開墾をし、いもを植えたのだ。それが日本の姿だった。

終戦を迎え、学校制度が変わり、民主主義とはなにかを先生たちが学び生徒たちに教えた。占領軍の指導もあり、いろんなことが試された。

そして、日本は焼け野原から復興するのだ。
福井は空襲があり街が焼けて、復興したかと思ったときに大地震に見舞われたが立ち直り、不死鳥の町と言っている。福井にはフェニックス通りもある。
でも、考えてみれば日本中がそうだったのではないか。福井は大地震に見舞われたけれど。日本は不死鳥のごとくよみがえる。

昨日の敵を友とし、先生とし、今を生きることに必死だった。すべてを否定するのではなく、受け入れ、明日を作ることに力を注いだのだ。だからこそ、復興がなされ今がある。あるいはそれは日本人だから出来たことかもしれない。

日本は日本の国土を焼け野原にしたアメリカやイギリスを責めたりはしていない。もちろん敗戦国だからだが、それでも自業自得であると運命を受け入れ明日を切り開いてきたのではないか。いつまでも恨めしいことをいっていても仕方がない。
日本は焼け野原から復興し、せっせと戦争の賠償をしてきた。
私たちにはそういう過去がある。

そして、もうひとつ、日本は江戸時代という平和な時代を経験している。戦国時代を過ぎ200年以上を戦いのない国で過ごしている。これは世界でもないことなのだ。そして米の生産は上がり、小藩に分かれていたからこそ特産品が生まれた。世界で一番の識字率を誇ったのもその時代だ。江戸はおそらく世界一の都市でだったがり、そこに流れている川は飲むことが出来るほどきれいな川だった。
士農工商という区別はあったが、武士は農民や町人を守るために存在し支配者階級ではないのだ。民のためによい政をするのが本分なのだ。
明治維新のときは、どこの国の属国にもならず独立し、西洋を学んだ。
戦争で好景気もあったが、太平洋戦争で戦争に負けるということを体験した。
どん底から這い上がった。そこに今がある。
日本人のどこが好戦的であるのだろう。それで痛い目にあってきたことをよく知っているのに。
再び日本を焼け野原にしたいと誰が思うのだろうか。
そして、だれが支配者になりたいと思うのだろう。

朝鮮には坂本竜馬がいなかった。だから、統一した独立のチャンスを失い朝鮮戦争というアメリカ・ソ連の代理戦争に巻き込まれる。
中国は国民党がずさんなためにアメリカが手を引き、それからたくさんの小競り合いを起こしている。

日本は戦後70年、どこも侵略もせず、焼け野原を復興し平和に過ごしてきたのではなかったか?
韓国や中国に悪口を言われるたびに、私は眉をひそめる。
私たちは自分たちの力で復興し、賠償もしてきたのではなかったか?
自分たちの文化を守り、新しいものを吸収し、暮らしを築いてきたのではないか。

先祖を敬うのは結構だが、過去に囚われて未来を作れないのではだめだという気がする。







posted by まっちゃん at 13:36| 福井 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月01日

この国のマスコミのカ・タ・チ

ネットという世界で膨大な情報が流れる。
いろんなニュースがあふれる。そして、実は、それぞれに表と裏がある。意見は一つではない。

そこでふと思う。
この国のマスコミの形は進化しているのだろうか。

反論すれば、反対すればいいのか。
もちろん、それも重要だろう。
対論がなければ、反対論を述べてはいけないなどという気はない。いけないものはいけないのだし、じゃあどうするかは改めて考えていいものだろう。

でも、この国の報道の形は偏っている気がする。
たとえばアメリカでの首相の演説。あれがアメリカではだめだとする報道がされた。では、あのスタンディングオベーションはなんだったのか。その理由は示しているだろうか。そのうえで、ダメだと言っているのだろうか。
反対に、あの演説が大いに評価されて、歴史の分岐になるという報道さえある。

また、おわびをしていないから駄目だというところもある。
では、なぜ韓国におわびをしなければならないのか、理由はあるのだろうか。アメリカ向けの演説で。
それはなぜ?
そこまで踏み込んで示している報道はあるのか。

韓国の人たちが反対デモを行った。それは事実。でも、それはアメリカの大きな流れではない。大きく取り上げるべきことなのかどうか。で、実際にそれはアメリカではどいう意味を持つのか。

慰安婦が本当はどうだったのか検証する集まりには人が少なかった。反対に慰安婦の権利を叫ぶ集まりには人が集まったという。どれだけ? 
それは弱い者を助けようという意識は働いているのではないか。

反対に、安部首相の演説を妨害するための新聞広告への寄付は、目標額を下回っている。

では、どういうことなのか。
それをきちんと検証して報道しているところはあるのだろうか。

50年も、報道の形は変わっていないのではないか。
何も学んでいないのではないか。

いい取材とはなにか、どんな視点が大切なのか、時は流れていてサンプルはいくつもあるのに、いつまでも反対だけで興味を引こうとしていないか。

とても疑問に思うのだ。
posted by まっちゃん at 13:02| 福井 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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