2012年03月12日

反原発の人に




 昨日、ツイッターを眺めていたら、こういう感じのツィートが目についた。
 「原発を止めて、これで安全ですと子どもたちが言える日を迎えたい」
 じつは、文面はそのままではないし、内容も違う。しかし、原発を止めれば安心だと思い込んでいるところを同じにした。こういう人は、世界一危ないと言われている浜岡原発が止まっていることに安どしているのだろうなと思う。
 だが、考えてほしい。原発は止めれば安全なのではない。反原発の人たちが陥りやすいのかもしれないが、原発を止めるというのはまだ第1歩にしか過ぎないということなのだ。それでもその一歩が大事はあるけれど。
 
 原発は、とめても動き続ける。チェルノブイリでさえ、現在何千人もの人がいまだ廃炉に向けて働いているのだ。爆発を起こした原子炉近くで命を落とした人は、その中にいまだに捨て置かれている。近寄ることも遺体を回収することもできない。そのまま、何世紀もそこに安置したままとなっている。だが、廃炉にしようと努力している人たちもある。そのままではまた爆発するしかない。
 つまり核燃料は冷やし続けることが必要なのだ。それは福島原発のニュースでよく知れ渡っていることなのだが。
 廃炉にする何年、何十年もまた問題だ。核燃料は冷やされ保存される。そして、廃炉でも高濃度の汚染物質が出てくる。廃炉も簡単ではないという。もともと壊すことを念頭に作られているのではなく、いかに安全に頑丈に作るかということを考えて作られた原発は、一筋縄ではいかないらしい。
 ひとつひとつで対応が違ってくるという話を、以前NHKの番組で見た覚えがある。ロボットを使って切断してもうまくいかない。調べてみたら設計図に書かれている厚さ以上に厚みをつけて作られていたことが分かったというものだった。
 そしてネジ一つ外すのでも書類がいる。そしてネジを外すとそのネジの表面から放射性物質をはぎとる作業が待っている。
 なんと効率の悪い話なのだと思ってしまう。
 そして、作業員は防護服を着て作業するのだが、やがて放射線の限界に来てしまう。そうなればやめざるを得ないのだ。危険な作業をこなしていく人が足りなくなっていく。

 そして廃炉したとしてもその後どうするのだろう。
 原発はトイレのないマンションと言われている。つまり、出したごみを引き受けるところがないのだ。
 低レベルの放射性物質は六ヶ所村に集められる。使用済み核燃料は2年〜4年その場で保管される。この間に何かあれば、原発は動いていなくても同じことだ。地震や津波で、あたりは汚染される可能性はある。核燃料サイクルができなければ、50年間中間貯蔵施設に保管される。青森県むつ市だ。
 でも、ある話を聞いたことがある。貯蔵施設はいっぱいになりつつあると。永久に引き受けるとは言っていないので、他に探す必要もある。(永久に引き受けてくれそうな気配もあるけれど)
 ある人は、今の原発があるところに仮置きするしかないのだろうという。
 結局は、原発が止まっても放射能の危険はすぐに去ることはないのだ。

 危険な放射性物質は扱いやすいようにガラスに閉じ込められ、厚さ20センチの鉄の容器に入れられる。それを厚さ70センチの粘土に入れて、地下300メートルに貯蔵する。イギリスでは、その地下貯蔵施設に問題があり、現在核のゴミが地上に仮置きされているそうだが。
 地下に置かれた核のゴミは300年間モニタリングされる。そのあとは放っておくことになるのだろう。現在地下貯貯蔵施設をもつフィンランドでは、10万年後の人類に、これは危険なものだと伝えるにはどうすればいいかを考えているらしい。それは、ネアンデルタール人が現代人に危険を伝えるようなものだという。
 まぁ、300年モニタリングだって、日本でいえば江戸時代ということになのだが。

 なんという壮大な無駄をやっているのだろうと思う。原発は止めればそれで終わりではなく、そのあと延々お金を食いつぶしていく。人の命を脅かしながら。
 それにしがみつくしかない考えている人たちの多さにもあきれる。でも、そうさせてきたのも私たちなのかもしれないが。

 私の子供のころの科学雑誌に未来の発電について書かれていた事を思い出す。
 今注目されている地熱発電についても書かれてあった。潮の流れを利用した潮力発電、波を利用した潮位発電、太陽光発電、風力発電。もし、原発につぎ込んだお金のいくらかをそれにもっとつぎ込んでいれば今の日本はもっとクリーンエネルギーの最先端を走っていたのではないか。
 オイルショックのころには、ミドリ虫や藻によるオイルが作られる研究があったように記憶している。
 他にもある。昔は小さな水路でも発電をしていたのだ。それで、電車が走ったり村の電気を賄ったりもしていた。今は、法律の壁があるようだが、同じように小さな水路に小さな発電機をしかけて、近くの家々の電力の足しにする。山の斜面や家々の斜面に太陽光発電パネルをつける。そして、風が吹けは小さな風車が家々で回る。そんなことが出来ないだろうか。何かあった時に、最低限の電力を自分たちで賄うことが出来たら。
 そしてそれらの発電機器は、壊れたとしても人体に危険を及ぼすことはないのだが。

 私たちは原発に対して盲目的に安全であると信じてきたこと、そういう問題に対して気にも留めなかったことのつけを払わされているのだという気がする。
 何十年も前に、原発の危険性を説いた本は出版されているのだが、それでも世の中は変わらなかった。今初めてそれを知った人もいるくらいだ。それに対するつけにしてはあまりにも大きな犠牲なのだが。
 そして、もう一つでも原発が大きな事故を起こしたら、日本は世界から見放される。そういう気がする。
 それでもなお、原子力にしがみつかねばならない理由がどこにあるのだろう。

 私たちは放射性のゴミを抱えている。それはあと10万年後の未来まで責任を取らなければならない。それは、湯川秀樹が基礎研究をしたいと言ったのに、無視した原子力政策の始めからのつけだ。それを見過ごしてきた国民としての責任でもあるのではないか。
 しかし、今まで日本人がしてきたように自然と寄り添い、自然からエネルギーを分けてもらうやり方を学び、実践していくべきなのだろう。
 それは私たちの責任なのではないか。
 何かを変えていくべきだ。

 そして、反原発の人たちも、ただ原発が止まればいいという問題ではないことを知ってほしい。そういう気がする。ただ、熱病にうなされているだけではなだめなのだ。もっと学ぶべきだ。
 たぶん、2年か3年たつと、福島の放射線量は7割くらい減る。セシウムの一つが半減期を迎えていくからだ。そして、20年か30年もすれば、福島は今のことを忘れるくらいになっているのだと思う。たぶん、除染されたところは線量も低く農業も普通に戻っているのではないかと思う。チェルノブイリを見ているとそう思える。
 低線量被ばくによる影響は出ているかもしれない。その因果関係は立証されるのかどうか。
 そのとき、今のことを覚えていて反原発を唱えられるだろうか。

 でも、私たちはこの災害を忘れないと決めたはずだ。地震や津波だけでなく、原発事故に対しても。壊れたら施設だけ被害を受けるのではなく、日本の国土の本当に信じられないくらいの広さを汚染してしまう原発というものの怖さを。

 燃料費がかかるとかだけの問題ではなく、原発は完成されていない技術なのだ。そもそも成り立たないものではなかったのか? いまだに最終処分さえできない。出来たとしても300年のモニタリングの手間、そして半減期10万年の放射性物質を残すのだ。
 原発がすべて止まり、燃料費が上がったからと言って電気代を上げる。「ほらね、困るでしょ」としたり顔の電力会社では困る。もっとすることがあるだろう。人の命を左右するようなものをもって置いて、すまなそうな顔をするならともかく、何んということだ。電力を人質にとって。
 もう遅いのかもしれないが、新しい可能性を広げてほしい。まずはメガソーラでもいいし、地熱発電でいい。かかる燃料費をクリーンエネルギーで補うくらいの姿勢を見せろと訴えていかなくてはいけないのだと思う。


posted by まっちゃん at 11:24| 福井 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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