2012年08月24日

ここ最近思うことをつれづれに

青いと言われるのを承知で書こう。
なに言ってやがるとか、甘いと言われるのもわかっている。でも、書きたいとおもう。

私たちは、幻想の世界に生きていないか?
それは、バーチャルな世界というだけでなく、「これが正しい」と盲目的に考えてしまう世界のことだ。それは両目をしっかり開けていたとしても、心や、情報が閉ざされている世界のことでもある。
私たちは、本当に幻想の世界を自ら作り出してはいないのか?その世界がすべて正しいと考えていないか。自己矛盾も感じながら、少し考えたい。

例えば電気。
この夏、原発がなければ計画停電だと言われてきた。その可能性もあると。節電しましょと言われたが、猛暑が日本を襲った。で、結局、電気は足りた。販売電気量は7月で前年度を下回り、家庭用は12.4%減、大口企業でさえ1.8%減。
本当に原発を動かす必要があったのか。あれはただ、関西電力の資産を保護するためだけだったのではなかったか。それはたぶん、国民の命よりも重いものだったらしい。
そして、この減少傾向はまだまだ続くと思われるのだ。誰かのブログで、このまま節電効果が進み、当然寿命が来るエアコンや洗濯機、冷蔵庫が買いかえられれば家庭の負担はないままで節電効果が望まれると書いてあった。おおむね正しいという気がする。そりゃそうだろう。ただの買い替えなんだから。
そして、電力の安定供給は大口の工場では必須だから、自家発電はますます進むだろう。リスクを減らしていくことは企業としては当たり前だからだ。
そして、再生可能エネルギーの効率はさらに上がっていくだろう。

なのに再生可能エネルギーは不安定だという。だから原発という。でも、原発なくて、再生可能エネルギーも足りてない状況で電気足りたよね。
でも、燃料費がかかったって? でも、原発の価格ってそんなに安いと思っているの? それから廃炉にし、ガラス体に閉じ込め、50年くらいはそのまま冷やし、さらに地層処分だよ。トンネル掘って地中深く埋めていく。放射能が漏れても、もうだれも手が出せないんだよ。
そして、そのまま300年は最低監視するわけだ。これって、電気代に含まれるべきなんじゃないの? 燃料費とどっちが高いの? 命と原発、どちらが大事なの?
経団連の会長は0%に不快感を持ち、それした時のリスクを国民は考えてないという。いゃ、考えるのをやめているのは経団連だろう。0%でも成長できるように指導し考えていくのがそういう団体の仕事じゃないの?
国民の90%は、自分が知らない間に被曝・死のリスクを勝手に背負わせていることに対して怒っているわけだから。もっといえば、経済成長しなければ誰も幸福になれないのか? 

太陽光発電が安定して発電が見込めないと誰が言ったの? 価格が高いと誰が言ったの? 奈良のあるお寺に設置されている太陽光パネルは28年だっけ、安定して動いているよ。というか、太陽光パネルは基本的に石みたいなもんだから壊れないらしい。壊れるのは回りの機器。だからしっかりメンテナンスしてやれば50年でも動くものらしい。そんな事実を考慮して発言しているのかな?

私が反原発なのは、原発自体が危険なものだから。
もう1基、壊れたら日本は終わってしまう。その確率は、20年に1度くらいになっているはず。
怖いものはやめましょうという、ただそれだけ。勝手に死や被曝のリスクを背負わされるのは勘弁してほしいというだけ。

でも、新聞は書きたてる。
無責任なことを言うなと。反原発を言うなら、その間どうすればいいのか示せと。
でも、まてよ。どうしてそれが無責任なのか。
危険なものをやめましょうということがどうして無責任になるのか。
例えば食品添加物。これは発がん性物質だから使うのはやめましょう。そう言って、いろんなものをやめてきたのではなかったか? でも、そのつけを国民に回したことはなかったはず。国民を守るためにやめたはず。
原発は危険だからやめようというのは違うのか。あるいは発言は自由にできないのか。根拠がなければ反対だと言えないのか。それは暴論である。食品添加物が廃止されるとき、国民にじゃぁ、代わりになるものを作ってくださいとか研究しろと誰が言ったのか。もともとそんなものなくても良かっただけだし、代わりはまたどこかの企業がすぐに穴埋めしたはず。
で、原発やめてじゃどうするかというのは電力会社なり政府なりが考えることではなかったか。それだけの情報を集め考える立場にいるのは彼らのはずだ。
私たちは言う。
爆弾は怖いから、使わないようにしよう。
銃は危険なものだから、一般の人が持てないようにしよう。
危険なものは、危険なものとして持たないようにしよう。
それがどうして原発だと無責任になるのか。

原発というものしか見えていないからそうなってくる気がする。
物事の断片しか見えていないという気がする。
私たちは本当に、電気を大量に使うしか能がないのだろうか。
その前提に立っていると考えていないだろうか。
全てのラジオやテレビが、夜に放送をやめたら人は生きていけないなるだろうか? それはそれで生きていくのだ。
夏が暑かったら人が死ぬなら、日本はとっくの昔に絶滅している。
日が暮れたらみんな寝て、朝、明るくなったら起き出すことをみんなやったら電気はたちまち使われなくなる。朝の涼しいうちに仕事や勉強をして、昼はみんなで涼し所に行くのだ。ちょっと昔の人々のしていたことをすれば、電気代は抑えられる。さらに省エネは進むから、電気は過剰に増えない。

実は私たちの自我は分裂しているのだ。
矛盾したものを抱えて生きているのが人間であり、とくに日本人だという気がする。
日本人は仏教が入ってきても、日本の八百万の神々は心の中にしっかりと生きていた。それを否定してはいないのだ。ヨーロッパにおけるキリスト教は、土着の神々を悪魔としてしまったが、日本では共存していく。
そのキリスト教が入ってこようが、仏教や神道との生活の中に採りいれてしまう。
それだけではない、いろんな社会的要件に対して自己は矛盾していても成立している。環境保護を唱えていても、平気でたばこを吸い、森の中に車で進入する。でも、その人は矛盾を感じていない。
どんなに素晴らしいことを言ってくれる人であっても、欲はあるだろうし、知らない間に人を傷つけることだってあるだろう。

選択肢の広がった現在、夢は努力してもかなわないものになりつつある。そもそも、選択できなかった夢を選択できるようになったから、夢の実現する確率は減ったのだ。努力は無駄に終わることが多いが、叶うと信じる。本当にそうだったら、多分社会は混乱する。
夢の成果だけ見ていても叶わない、夢をかなえるための過程を考えるべきだという至極もっともな意見がある。でも、それでも夢は叶わないし、努力は報われない。自由になって選択肢を広げることが可能になった分、夢の実現確率は落ちていく。
私たちはそれでも「夢はかなう」「努力は無駄ではない」という甘い希望のなかで自己満足に陥っていく。私たちはその矛盾に気が付いているが、その希望にすがることが素晴らしいと思い込んでいる。

個人ということでいえば、知らない間に私たちはリスクを背負わされている。交通事故で死ぬリスク、公害で死ぬリスク、そして原発事故で死ぬリスクまで。勝手に背中にしがみついている。何の見返りもないのに。
私たちは矛盾する自己を抱えたまま、そのリスクを減らそうとする。
社会もまた、リスクを減らそうとする。そこにまた、新たなリスクが生まれるけれど。
そうして私たちは生きていることを認識するべきなのだろう。私たちは、そうして生きている。
矛盾したまま、その時々に正しいと生きている。

反原発を唱えながら、電気に頼って生きていてもそれはそれでありなのだ。
ただ、原発の電気は使いたくないというだけにすぎない。
それはそれで正しい。
間違っているとなぜ言えるのか。

たとえば、ずいぶん前に自動車メーカーはスポーツカーを造るのはやめた。なぜなら、その時はファミリーカーやワゴンが売れた。これからはそういう時代だと舵を切ったのだ。
でも、若者はバイクや車に乗らなくなった。そこに価値を見出さなくなった。
日曜の度に洗車するような若者はいなくなったのかもしれない。ファミリーカーでなくてもかまわない、目的地に着けばいいのだとなればなにもかっこいい車である必要はなく、そもそも車を持つ意義さえないかもしれない。
そこであわててスポーツカーを作って、若者を車に目覚めさせようとしている。でなければ、車の未来はないのかもしれない。
でも考えて見れば、スポーツカーの未来はないと言ってきたときでさえポルシェやフェラーリは存在した。これからも存在するけれど、それで若者の車離れがなくなるわけではなく、必要な人がお金を出してかまわない人が買うだけだろう。

テレビも同じだ。
昔はもう一つの壁と言われたテレビ。何がなくてもテレビがなくては生活が成り立たなかった。だから、テレビは進化し、テレビ局は潤い、人々はテレビ番組を話題にした。
でも、今はテレビを作ることが企業の足かせになっている。もうそんなにいらないのだ。
視聴率が上がらないという。もう、そんなにみんなと競ってテレビを見る必要がないのだ。つまらなければ見ないし、見たとしても話題にならなければそれでもいい。

パソコンも同じだ。
ディスクトップパソコン、ノート、タブレット、スマートフォンときてこれからはメガネと合体する。そうなれば世界は変わるという。本当にそうか?
メガネを通してパソコンが使えたとしても、それは形態が変わっただけのこと。パソコンはパソコン。走るソフトは同じだ。メールが動き動画か動く平面でしかない。メガネ型の最大のメリットと言えば立体視しかない。両手が自由になることと。それはそれで大きな変革だろうが、それで世界は変わらない。特別視はできない。それはただのパソコンだ。特別であることの理由はあるだろうか。
世界を動かすうえでパソコンが必要なのは間違いない。でも、世界はパソコンではない。人の世界こそが世界なのだ。人と人をつなぐ情報の世界に必要な道具としてのパソコンなのだ。

人はただ生き、地球は回る。それは変わらない。
私たちは何かが変わると信じていろんなことをしてきた。自分たちが正しいと信じてきた。でも、それは矛盾の中にあり、それは正しいかもしれないが、正しくないかもしれないのだ。
私たちは盲目的に自分が正しいと信じてきた。でも、それは本当にどうなのだろうか。

大津のいじめ問題が過熱し始めている時に友人に向けて、彼らが許せない気持ちは分かるが、それがヒートしすぎるのはどうだろうと言ったことがある。彼はそれでも許せないものは許せないと言った。それは正しい。でも、全ては正しいとは限らない。
加害者が被害者となる可能性はある。
そして、事件そのものの本質を問題にするのではなく、加害者の特定にしそしみ、加害者をそれを容認してきた学校や教育委員会、行政を非難する。人々の興味は、より新しいスキャンダルと、それを暴く行為である。
本質は忘れ去られていく。

中国も韓国もいい加減にしてほしい。
いつまで戦争という幻想にしがみつつ、日本という国をフィルターのかかったまなざしで見続けるのか。
そろそろ考え直すべきだろう。
どんなに間違った歴史でも、それは自分の都合のいいように曲げられる。それは日本でだって同じこと。明治政府は、江戸時代を悲惨な時代として人々を教育した。自分たちの正当性を守るために。でも現代日本の基礎を作ったのは江戸時代にある。
人々は自由に旅行なんてできなかったのか? いやいやお伊勢参りというイベントがあって、みんな旅をしている。
殿様は地域の特産物を作ろうと情報交換したし、参勤交代のおかげで江戸の情報は地方にも伝わった。支配者階級と目される武士も、ヨーロッパの殿様と違い支配者ではなく、管理者であり人々を守る立場だった。
鎖国政策も、もとは植民地政策を推し進めるヨーロッパ各国から日本を守るためだったし、それで外国の情報は入ってこなかったのかといえばそうではない。ロシアのウォッカも売られていたし、ワイングラスも売られていた。
また、朝鮮半島からは使節団がやってきて、みんなそれを見ていた。
ところがそういう江戸の表情が分かるようになったのは近年だという気がする。もともと明治大正の文学者などかそういうことを伝えてはいたが、学校教育では士農工商という身分制度があり(じつは、それはそれで楽な世界だったはずだし、町民が武士になったり、能力を買われて武士にとりたてられたこともある)民衆は搾取されていたと教育された。(幕末に行くにしたがい石高を決められている武士は困窮し、農業から見ると、収穫高は江戸時代初期から比べるとものすごく収穫が増えている)
昔は江戸時代はとんでもない時代と教えられていたのだ。
それが正しかった。でも、情報がそれを正していく。今はまだその途中だが。

戦争の記憶を持った人がいなくなる頃に、中国や韓国に昔の日本人はひどかったと言われてもピンとこないのではないか。というか、韓国・中国はそれをいつまで問題にしなければならないのか、それによって本質が見えなくなっているのではないか。という気がする。
むしろ不幸な過去は過去として忘れてはならないとは思うが、協力し合うことでもっと大きなメリットがありそうな気がするのだ。
それにはお互いに歩み寄らなくてはならないし、お互いの国に敬意を払うべきなんだろうなという気がする。
ただ、子どものケンカのようなことをいつまでしていても仕方がない気がする。

今、坂本龍馬や織田信長がいたら、なんか面白い手を打ってくるのだろうなぁ。
そう思えるのだ。


私たちは大いなる情報の海に浮かびながら、矛盾を抱えたまま生きている。それは、現代で生きている人すべてに言えること。
どれも正解はなく、間違いもない。そのことを認識すべきなのだ。
自分だけが正しいという認識は、幻想だ。私たち一人一人は幻想の世界に生きている可能性は高いが、リアルな現実世界でも生きている。
呼吸し、心臓は鼓動を打つ。
その事実を忘れずに、情報をいかにきちんと生かし、物事の本質を考えるべきなのだ。
夢と同じように、そこにはたくさんの選択肢がある。ゴミのようなものもあれば、偏ったものもある。でも、その中できちんと本質はどれかを問うべきなのだろう。
自分がすべてだと思い込む前に。
そうすれば、きっと本質は見えるのかもしれないし、叶えるべき、叶うことが出来る夢のようなものを見つけることが出来るのかもしれない。


なんかうまく書けなかったし、いいたいことをきちんとかけていない気もするが、ここ最近の考えていること、感じていることだ。



posted by まっちゃん at 11:39| 福井 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
太陽光発電をした電力を電力会社の電気料金よりも高い価格で電力会社に売電することができる。
その差額は電力会社が電気料金に上乗せする。
従って、太陽光発電をしていない人々が負担しなければならない。
その結果、貧しい人々はますます貧しくなる。
その上、国や自治体が税金を使って太陽光発電設備の設置に補助金を出している。
太陽光発電をしない人々はその税負担もしなければならない。
このような、貧乏人にしわ寄せがいくような制度は速やかに廃止してもらいたい。
この制度はメガソーラーで一儲けしたいソフトバンクの孫正義が当時の菅直人首相と結託して制定したもの。
Posted by 微風 at 2012年08月24日 14:26
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