2007年08月06日

62回目の原爆の日に思う…



原爆の日である。
最近、原爆についていろいろといわれているが、なんだかなという気がしている。それは、アメリカが原爆を落としたことについて正当化、あるいは正しかったという認識がどうかという問題だ。最近はさらに、同じ広島長崎型の原爆を実際に落としてみて、広島長崎と比較しようとした実験計画があったとかいう報道もあった。これは実現しなかったそうだが。

原爆が落とされたことで戦争が終結したとかいうことは、もうどうでもいい。そんなことより、原爆が落とされたことによって、未だにその後遺症を持つ人がいて、悲しむ多数の人がいるということが問題なのだ。
落としたことが正しい、正しくないというのは問題の本質ではないと思う。原爆などという大量殺戮兵器が、どんなに悲惨であるか、どんなに非人間的であったかを伝えなくてはならない。と思う。

過ぎた過去を取り戻せるのならば取り戻したいが、それはもうどうにもならない。それは重い事実として、忘れてはならないということだ。そして、なくなった方に同じ過ちを犯さないことを誓うのみだ。

むしろ、被爆国として、原爆とは何かということを発信していかなくてはならないと思う。それは、戦争という愚かしい行為がむなしいことであることを伝えることにもなるだろうし、原爆・原子力が何年も影響を残すことを伝えることになるだろう。
そして、それは、どんな言い訳をしても原爆は正しくないということ、戦争だからといって認められるものではないということを伝えてくれるのではないか。

原爆の日に世界中で何が発信されているのか私は知らない。
でも、世界中の新聞に、原爆が落とされた後はどうなるのか、どれほど長い時間がかかっても苦しむものかを載せたらどうなるのだろう。
それが出来るのは日本という国だけなのだ。

だから、インドであろうが北朝鮮であろうが、私たちは反対すると声を上げるのだ。それは政治ではなく、市民の声として届けなくてはいけないような気がする。
posted by まっちゃん at 17:55| 福井 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 事件に思う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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