2016年01月13日

成人式って誰のため?

成人式のニュースをテレビで見ていた。違和感を感じるのは、みんな成人式を「自分のための式」だと考えていること。だから自分が好きなようにすればいいと考えている。
成人式は確かに自分のためではあるのだが、その意味合いは違っている。
「成人して、自分が社会にとって責任ある人になったことを示す式」ではないのか?
自分のことだから自分勝手にやればいいというのは、成人式そのものの意味を取り違えているように思えてならない。
自分は自分勝手な子供ではなく、社会の中で生きていくことを決意し、認められるための式ではなかろうか。だから、きちんと正装し、社会に対して自分は子供ではないことを示さなくてはならない。

結婚式前日を独身最後の日として楽しむように、馬鹿をやりたいのなら成人式前日にしたらどうだろう。そして、子供っぽいことはこれで最後にして、成人式にはどこに出しても恥ずかしくないきちんとした服装と言動を示すのだ。そっちの方がかっこいいと思うのは、私だけだろうか。

実際には成人式過ぎたって子どもは子供である。大人になれるのは人生を高みから見ることができる40代や50代かも知れない。男はずつと子供のままかもしれない。それでも分別はつくというものだ。

それでも、成人式というのはどこへ出しても恥ずかしくない覚悟を決めるのだと思う。とりあえずデモ。中身は子供でも。
つまるところ成人式は社会のために行われるのだ。決して個人が好き勝手する場ではない。社会のために行って、それがひいては自分のためになるのだと思うのだが。
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2015年12月16日

同性愛者は異常か正常か 

岐阜県議会で「同性愛は異常」という発言があったそうである。大半の人はこれにひどいと言うのだが、その本心はどこにあるのだろうか。
 オネエと呼ばれる人がテレビで活躍し、同性愛という言葉の垣根は低くなった。また、BLという言葉で知られる少年の同性愛にうっとりする腐女子もいる。だからと言って、同性愛が認められたわけでは実はないと思う。
 そういう差別はよくない、あるいは悪口はよくないと思うから「ひどい」であって、そこにはまだ他人事だという意識もあるのだはないか。自分にはかかわりのない世界だけれど、人を差別するのはよくないということで言っているのではないのだろうか。それはそういう世の中の流れの中で言っているに過ぎないかもしれない。
 私は、ある意味「異常」だと思っている。それが正常ではないという意味で。あるいは異常というよりは異端と言っていいのかもしれない。こっちの方が近いかもしれない。

 歴史的に見れば、同性愛は古くからあるようだ。昔から武将はそういう傾向があると聞く。織田信長も近くに美少年を置いていたし、(もちろん、結婚もしているわけだが)それが当たり前でもあった。徳川家光なども男が好きで、そのために世継ぎが生まれず春日局は苦労する。男っぽい尼さんを還俗させて連れてきたりして、大奥なども創り上げてしまう。
 生物学的に異常だというのも正確には当てはまらない。
 動物に同性愛がないかというと、実はそうではなく少なからずそういうものもいるらしい。ただ、そういうのばかりだと種は絶滅してしまうので、やはり特殊な結果だと考えるしかないだろう。
 実際にどれくらいの人がいるのだろう。ある同性愛の人は13%と言っていたけれど、調べてみるとそれほどは多くない。4%というところもあるし、おおく見積もって10%というところもある。
 それでも100人に4人はそうだと言われても実はピンと来ない。私が生きてきた中で、そういう人に出会ったのはたった3人である。もちろん、新宿などのそういうお店関係を覗いた数字でだ。その人たちも、子供がいたり結婚していたりするから、両性愛というものだったかもしれない。感覚的には多くない。本当に困るほど多いという感じはしない。大体そこらにいたとしても、気がつかないし、それを公言しなければわからないし、それが重要な問題になっていないのだと思う。病気や遺産や、法的な保護という意味で困っているかもしれないが、それはそうならないとわからない事だし、私たちにはそれを察知することもできない。
 そういう問題をそのままにしていいのかといえば、本当はダメなんだろうが、他に大変な問題や、自分に関わる大変な問題があるのに、自分にかかわりのないことにとやかくも言わないのである。世界は同性愛だけで回ってはいないのだ。

 私も、実は同性愛であろうが異性愛であろうがあまり関心がない。変な目で見るとか、そういうことはない。相手が同性愛者であっても関心がないので普通に接している。それでいいんじゃないかと思っている。相手も何か特別に思ってほしいわけではなくて、普通に接してほしいのだろうと勝手に思っているのだが。私は女性が好きだし、それだけで十分じゃないか。

 「異常」発言があっても、それがさほど大きな社外問題化しないのは、実はそんなことはどうでもいいと思っている人が多いからではないだろうか。自分にかかわりがないので、「ひどい」と倫理的に考えても、必死で抗議するほどのことではないのだ。異常かと言えば正常ではない、やはり異常であると考えても仕方がない。
 
 同性愛者たちは必死で自分たちの権利を主張する。それは当然と言えば当然。でも、そこに違和感がある。
 自分たちを認めてほしいという気持ちはわかる。でも、現状は異端であり、社会システムがまだそれに対応してはいないのが事実。
 4%であっても、社会的システムは0%。少数派ですらないのが現状である。渋谷区がやっと、証明書を出すに至った。それで、生命保険会社が、受取人を同性でも出せるようにした。で、同性愛の人たちはそれっとばかりに自分の権利を主張しだしたのである。早くしろというわけだ。あなた方の会社がこう言った。だからとっととやれ。
 面喰っているのは、その生命会社の人たちではなかろうか。
 また、どういう風に進めるのかは前例がない。上からのマニュアルがない。あったとしてもそれを理解し、現場で使いこなすには時間がかかる。それは、新しいことなのだから仕方がないことなのだ。
 渋谷みたいに証明書があればと言われたと聞いた。それは当たり前だろう。今までのように血縁者ならすぐに解ることだったのだ。

 考えてみれば、けっこう大変なことなのだ。いままでの社会ルールで夫婦というものは実に解りやすい形なのだ。それでもそういう事実がなく保険金詐欺のようなことは行われていただろう。偽装にしろなんにしろ、結婚しているという書類を作らなくてはならない。女性だったら結婚したということで自分の戸籍も傷がつく。そういうリスクもあるのではないかというのは素人でも考えられる。もっとも、いろんな方法があるのだろうが。
 でも、同性愛だというのどうしたら証明できるのか。同居しているとどう証明できるのか。ルームシェアとはどう違うのか。難しいことだ。
 たとえば、誰かがなくなったとして保険金の請求が来る。今までは奥さんとか指定された遺族だろう。ところが、全くの赤の他人が受取人として名乗りを上げる。どう証明できる? 同性愛でしたと言われたとして、それで納得できるのか? 渋谷みたいな証明書でもあればまだいいのかもしれない。でも、それもない場合はどうするのだろう。素人の私でも、不思議な気がする。もっとも、今までだって受取人が血縁者でない事なんかもあるのかもしれないが。
 そういったいろんな問題をクリアにしていく必要すらあるのではないか。

 私はある同性愛者に、そういうこともあるのでのんびりと構えたほうがいいんじゃないかと言った。そんなに宿世に物事は進まないから。特に生命会社が同性愛者を認めたとしてその手続きが末端にまですぐに来ないよと。同性愛者のケースは失礼だが、圧倒的に少数であるはず。だって始まったばかりなんだから。何十年も血縁というルールにのっとって蓄えてきたスキルが役に立たない。また、事務の人間が研修を受けてやっと動き出すものなんだと。
 すると、「あなたはわかっていない」「あなたは保険屋か」「少数派こそが多数派なんだ」と分からない言葉をいただいた。
 会社がするって言っているんだから、すぐに対応しろ。というわけである。
 いろいろあるんだろうから、少しくらい待てばいいんじゃないかという言葉は、親切でもなんでもなく、アドバイスでもなんでもなく、火に油を注いだだけだった。
 ああ、心配したのに不快に気持ちになったなというのが正直な感想だ。
 もう、この人たちとは関わらないだろう。

 自分こそが正しいと凝り固まっているのだろうな。
 だから、人のことはどうでもいいわけだ。自分は正当性を主張して止まないのに、相手の意図や言葉を理解していない。自分たちが、虐げられてきたとすることと同じことを自分たちがしているわけだ。
 やれやれ。
 もっと、純粋で、もっと大変な問題を抱えている人もいる。
 あなたが抱えている問題は、そんなに世の中に人にとって本当に大問題なのか?
 非難すべきことであるのか?
 そんなに人生が不満なのか?
 
 この人たちが、理解を得られない、孤立しているとかいうのは、この人たちの方に問題があるのだという気がしてきた。こういうことたちが声を上げればあげるほど、ずれは大きくなる。その人たちが問題だということすべてがうさん臭くなってしまうのである。どんなに正しいことを言っていても、味方はいなくなる。同じような考え方をする人しか集まらない。

 声を上げるものは、注意深く耳を澄ませなくてはいけない。

 ステキな同性愛というか、性同一性障害の人を知っている。話したことはないけれど。彼(彼女)が一生懸命に仕事をしているところを見たことがある。私は、その仕事場でほかの人に用事があって話していたのだけれど、彼(彼女)はきちんと気を使ってくれて、お茶まで出してくれた。そして彼(彼女)は、自分の仕事(汚れる男っぽい仕事なのだが)に集中していた。
 また、ある日。彼(彼女)はイベントで自分からメイド服を着て通りに出ていた。案内をしていたのだ。にこやかに笑いながら。少し大柄で、みるからに男性なのだが、その雰囲気と笑顔は女性らしさがあったし、なによりも輝いていた。自分が解放されていたのだろう。
 彼(彼女)が文句を言っていたところを見たことがない。そして、職場の人たちはみんな彼(彼女)のことを理解し受け入れていた。そして僕にも、そういったことをきちんと説明し、不思議がらないように教えてくれたのだった。
 そういう人たちは自分が異常であることを受け入れ、それが自然とであると受け容れ暮らしているのだろうな。周りの人もそれが当然のように受け入れていた。
 ある日町中で、数人の人と一緒に笑っている彼(彼女)を見たことがある。ちゃんと女性の服を着ていて、それはとても似合っていた。
 彼(彼女)はとても幸せそうに見えた。
 いろいろ問題も抱えているのかもしれないが、彼(彼女よよなら周りも助けてくれるだろう。
 男であれ、女であれ、幸せは自分の心が作るものなのだ。
 不満だらけで暮していては、それさえ逃がしてしまうのかもしれない。


 
 
posted by まっちゃん at 18:33| 福井 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月19日

予言のようなもの。

予言めいたものといっても、預言者じゃないので当たるのかどうかは問題じゃないとして、ふと思うのだ。
 インターネットがここまで発達してきた意味とは何だろう。

 日本の江戸時代や、インカ帝国を思い出す。文明がある一定の基準で飽和してしまった状態。それは平和であり、(そりゃ犯罪はあるだろうが)そこに生きている人々にとってはそれで満足いく状態だったに違いない。
 そりゃ、他の大きな力が入ってきた時は、滅んでしまったり揺らいでしまったりするわけだが、その文化・文明がそこで完結している分には、とてもバランスが取れていて長く平和となる。
 インターネットとは、情報を共有化することによって、文化文明を飽和化していくのではないか。新しいものが生み出されないというのではなく、強大な共通文化圏みたいなものを作り出せるのではないかということだ。
 マンガならおなじみかも知れない。

 昔の人々は、自分の知る世界しか知らなかった。当たり前だが、新しい世界はひとづてにきき、そういうものがあると認識するしかなかっただろう。興味がなければそれで終わり、自分の世界で完結する。しかし、興味があれば自分の世界を壊し、飛び出て新たな自分の世界を広げていく。
 それは国家でも同じで、小さな島国のイギリスが世界の覇権者となった。世の中は帝国主義となる。新しい世界を手に入れることで、自国の領土を広げていく。日本も帝国主義だったそうな。そして、中国こそうち夕の中心とする中華思想もまた、同じようなもの。
 そこには軋轢が生まれ、戦争が生まれる。第1次世界大戦もレーニンがそういっている。また、現代で言えばISがイラン戦争から生まれたと言われている。イラン戦争もまた、利権が絡んではいなかったか。
 もともとはユダヤ教とイスラム教の対立。それから、イスラム教内の対立。そこに欧米が干渉することでそれぞれの国の思惑が絡む。
 そして、その結果ISが生まれ、火の粉は一地域だけでなく、世界中に広がりを見せている。
 その帝国主義的な考え方はまだ、世界中にある。好んで紛争の種にしなくてもいいと思うのだが、中国も勢力を拡大することに一生懸命。
 だが自国では少数民族への弾圧によるテロがあり、一人っ子政策によってゆがんだ人口ピラミッドが生まれ、超高齢化に悩む。頼るべき若者は小皇帝であり、自己中心的であり、自分の利害には厳しく考えているだろう。国をまとめようとして、長老どもが戦争を匂わせとまとめようとするが、戦争という古い手段でまとめ上げるのは難しいのではないか。
 中国は局地的な戦争はするかもしれないが、ある程度自分たちに有利であればこだわらないのではないか。
 次の世代の指導者が、どこまで今の路線を継承するだろうか。内需を拡大することで、巨大な市場をもつ普通の国になるのではないか。そして、貧富の差というより、ある程度満足できればいいというようになるのではないか。
 帝国主義の終焉になる気がする。そこには、インターネットによる情報の共有によって飽和した世界へ脱皮していくような気がするのである。
 
 韓国は悲惨かもしれない。感情に支配され計算できないと言われているが、実は計算高いという話もある。ただ、一時の激情だけで乗り切れるかというと難しい。日本を抜いて高齢化社会であり、内需拡大にも人口が少なすぎる。このまま、世界情勢の中に翻弄されそうである。
 国が亡びそうになりながらも、反日を唱えるか、ある日突然親日になるか。
 ありえないかもしれないが、自治権を持ちながらも経済的には日本に吸収されて行くのかもしれない。何世代か後には、「もう日本でいいんじゃね」という若者が言い出すかもしれない。
 日本の経済圏の中に組み込まれ、お互いが行き来し、韓国の事業など日本が請負おう。ひとつの経済的な日本の州の一つのような立場になるかもしれない。北朝鮮はロシアに組み込まれるか、中国に組み込まれるか。国は自国の一家だけで運営できるようなものではないだろうから、どこかの経済圏の中に組み込まれる。
 それには、インターネットなどでの情報の共有や、一定ラインまでの進化が必要となるだろう。だから、金一族は、日本の天皇のような存在ということにして、経済的にはほかの国の動きの中に組み込まれる。
 台湾も、日本の州のような立場になるかもしれない。
 日本は、領土的には広がらないだろう韓国や台湾が経済的に結びつきが大きくなって、日本の州の一つのようになったとしても、自治権はそれぞれにあり、国として機能しているのではないか。ただ、今のような国という考え方が通用するかどうか。

 まぁ、そんなことを夢想するのだ。
 アメリカやヨーロッパはどうなるだろう。
 文化的に成熟した国はそこで完結する。ヨーロッパは歴史が深い分、飽和の度合いは高いだろう。アメリカもまた、国内の問題を多くはらみながら、完結していくだろう。
 中東などの紛争はどうだろう。介入することで自分たちに火の粉が降りかかるということであれば、欧米の介入の震度は浅くなり、そのうち強制的に終了させられるような気がする。それは悲惨かもしれないが、ずっと続くよりはいいのかもしれない。
 戦争なんかで、とやかく言う時代じゃなくなる。それはあとどれくらいかかるかわからないが。何度かの小競り合いや、大きな戦争になりかけながらも、結局のところ終わらせたほうがましということになるような気がする。
 戦争をすれば、何かが儲かるという時代ではなくなるような気がする。それでも武器商人たちは武器を作るだろうし、国は買うだろう。これがなくなるのはずっとあとかも知れない。

 インターネットにより情報の共有化が図られ、人々の意識が飽和状態に向かっていく。として、SNSはどうなるだろうか。
 反インターネットというような流れが生まれるかもしれない。インターネットのない方が幸せだという流れ。それが自然回帰の流れを産む。
 しかし、情報の共有化、利便性からネットの流れは変わらないだろう。人々の利用率そのもの、SNSや自己の切り売りは減っていくし、自己制限されるだろうし、敬遠もされるかもしれない。だが、どこに行けばどのような価値があるのだろうかとか、知識の共有化という部分では普遍的な価値を生む。
 かくて人類は巨大な意識に統一されるとは言わない。個人はあくまで個人。ネットの情報を利用する部分とねそれを必要としない部分に分けられていくのが普通の生活になるのではないか。
 たとえばロボットが店員になれるからと言って、すべてがなるわけではない。最初は都会。それから、広がりを見せるが、やはり人間の手に戻ってくるのではないか。そして、ロボット店員(ヒューマノイド型ではなく)は人でがないところや、さほど必要でないところに利用される。
 自動車の自動運転は、あるていど法整備がなされ、それが可能なところで発展するだろう。地区ごとの発展になる。日本なら全国的に可能だろうが、すべてはならないのではないか。たとえば速度の調整やルートの調整、衝突事故回避などが充実していくが、人の手によって運転するということが残るのではないだろうか。自動運転と手動運転の切り替えみたいなことがおこるかもしれない。
 すべてが機械の手にゆだねられるということは、ありえない気がする。自分の手で運転する、あるいは何かを自分の出て作り上げるというのは、価値あることになるのではないか。
 なんでも機械でできるが何でもはしない。種をまく温度湿度、タイミングはコンピュータが教えてくれるが、それにあえて従ず、そこから生まれる予測不可能なことに価値を見出すような。
 中世への回帰のようなものが生まれるかもしれない。ある種の贅沢として。
 人間は自分で出来ることは自分でする。それが、人としての尊厳を保つことになる。中世のお城の中の一室に、ネットでつながれたコンピュータがいる。そんなイメージかも知れない。
 
とまあ、こんなことを考えてみたのだが、当たるだろうか? 
posted by まっちゃん at 11:33| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月06日

三菱を思い出す。



なんか三菱を思い出す。
昔はカーメーカーと言えば、トヨタ、日産、三菱、だったけれど、アメリカマスキー法をクリアしたホンダが売れ、苦しくなった日産は名車が消え存在感が薄れ、三菱はトラックのタイヤなどの問題でだんだんブランドイメージが悪くなった。リコール隠しや、隠ぺい体質が嫌われた。パジェロといういい車もあったが、今の車の技術開発の流れに乗れず、いまだに低迷している。
いま日本の車メーカーといえば、トヨタ、ホンダ、マツダだろうか。トヨタを除いて、いやトヨタでさえも独自の考え方をして車を作ってきたメーカーだ。独自性がある。日産や三菱はそれをなくしてしまったような気がする。

フォルクスワーゲンは、ドイツの職人気質が創り上げた車というイメージがあっただけに、今回の不正はかなりブランドイメージが悪くなった。職人が作った一本気な車というイメージに傷がついた。ああ、なんだ金儲け主義の、小手先だったのかとフアンが落胆しかねない。
三菱自動車みたいにならなきゃいいかという気がする。

posted by まっちゃん at 12:11| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月08日

エンブレムについて思うこと

結局、あの手のデザインはなにかに似てくる。原案がどうであれ、最終的に似ていたらダメなんだ。早い者勝ちなのだ。
佐野氏の失敗は、そういうデザイン特性を説明しなかったこと。そして組織委員会に後の対応策を任せなかったことだろう。
似ている似ていないは、国民には分かりにくい。
一番の敗因は、あれがいいと思っている国民が少なかったことではないか。
どんな芸術作品も、結局は独り歩きするエンターティメントである。そういうものが欠けているのではないか。
理由はどうであれ、自分の理屈はどうであれ、それは関係がなくなる。それが必要なのは、その作品の理解を深めようとするときだけだ。
一番の敗因は、いいと思うオリジナリティを感じることがなかったからではないだろうか?
posted by まっちゃん at 06:31| 福井 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

エンブレムについて思うこと

結局、あの手のデザインはなにかに似てくる。原案がどうであれ、最終的に似ていたらダメなんだ。早い者勝ちなのだ。
佐野氏の失敗は、そういうデザイン特性を説明しなかったこと。そして組織委員会に後の対応策を任せなかったことだろう。
似ている似ていないは、国民には分かりにくい。
一番の敗因は、あれがいいと思っている国民が少なかったことではないか。
どんな芸術作品も、結局は独り歩きするエンターティメントである。そういうものが欠けているのではないか。
理由はどうであれ、自分の理屈はどうであれ、それは関係がなくなる。それが必要なのは、その作品の理解を深めようとするときだけだ。
一番の敗因は、いいと思うオリジナリティを感じることがなかったからではないだろうか?
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2015年09月01日

東京五輪エンブレム使用中止は当然だとおもう。



もともとの原案が違ったとしても、最終的に使われるものが他と同じデザインなら使えるわけがない。
そんなのデザイナーとしては当たり前。少し違えばいいなんて世界でもない。
みんなそこで飯を食っているのだから、オリジナリティーは重視されるのだ。
最初に見た感想はほかでも書いたけれど、ださいである。
いまさら、過去の五輪とイメージを重ねてどうする。
そして、文字を変化させるあの手の方式はやりつくされている。そういうものを選ぶあたりがセンスがない。これは、デザイナーのセンスでもあるが、選ぶ人のセンスでもある。センスのない人が、他からの圧力だけで選んだように感じてしまう。これは選ぶ大会委員会に透明性を感じないからだと思ってしまう。
大会委員会が、透明性をもっていくつかのデザイン案を示し、その中でもこれっという風に手順を追って発表せずにいきなりこれですって言われもという気がする。もちろん、ほかの作品を発表しないという理由もわかるのだけれど。

大会委員会が古い体質のままなんだなと思ってしまう。そして、そこにいろんな利権がからんで、儲けようとしているのだなと思われてしまう。国立競技場がいい例だ。はした金だという、そこがもうずれている。もともとコンパクトな大会を目指していたような気もするのだが。
本当に五輪を純粋に成功させようと考えているのか、そんな風にも思われてしまう。自分たちの都合のいいようにすればそれでいいと思っているのではないかとカンぐりたくなる。どうせ大衆は烏合の衆だからと、古い意識しかないのではないか。なんでも、上から言えばありがたがる世界ではなくなっているのだ。

あんな日本を感じることもないようなデザインをどうして選べたのか。選考にもっと透明性と、もっとセンスのある人をいれて納得させてほしいものだ。
posted by まっちゃん at 16:17| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月28日

銃社会と安保



安保法案に反対だろうと当然のように言われると、私は困る。
私は、反対でも賛成でもない。正直なところ分からないのだ。中身もわからないし、賛成や反対する人たちの論理もよくわからない。

安保法案は戦争をするための法案と言われる。でも、果たしてそうだろうか。
アメリカの言いなりになっていると言われる、でも、それがなぜいけないのか。どこまで許されるのか。わからない。私たちは丸腰でいいのか。とも思う。

私は、現代社会はどこまでリスクを経験できるかだと思っている。個人的なリスクの上に、望まなくても社会的なリスクは背負わされている。核のリスク、原発事故によるリスク。潜在的な危険はいつもあるのだ。
それをどう回避していくかが、政治の道であり、駆け引きなのだろう。
そこには、理想も何もないと思っている。戦争のない世界は今のところ存在しないし、戦争が起こるリスクは絶えずある。中国によるアジア支配のリスクは戦争への危険をはらんでいる。経済的な減速がその引き金になりうることは日本はよく分かっているはずだ。そのリスクは日ごと大きくなっている。なっていなければ、こんな法案じたい出てこなかったのかもしれない。
また、9条があるからおかしいという。ならば、戦争になっていもいいのかと聞きたい。9条は戦争抑止力ではない。
それでも戦争にならないという。果たしてそうだろうか。法案があったほうが戦争のリスクが高まるのか、減らせるのか。誰か教えてほしい。
中国は尖閣諸島を自国の領土だと主張している。沖縄まで実は中国なんだと言っている。これは冗談ではない。とすると、尖閣に上陸することはありうるのだ。それはもともと自国の領土だから「侵略」には当たらないと主張するだろう。そして日本がそれを阻止、あるいは奪還する。すると戦争を仕掛けられたとして、堂々と日本に対して開戦できるのではないか。あるいは、沖縄にしてもそうだし、石垣島だっていい。あれは自国の領土だと中国が言ったという事実があれば、それは国際法上禁止されている「侵略」ではないと言えるのだ。
そして日本政府が抗議している間にも、人々は蹂躙され、殺される可能性だってある。
そういう可能性はないだろうか。たとえばの話だが。無知と笑われるのかもしれないが。

私はふと思うのだ。安保法案が外国で受け入れられているということを。どうしてかと。
アメリカは銃社会である。安全と平和は、自分で守っているという意識が高いのではないか。
そして、そういうパワーバランスこそ平和を実現していると考えるのではないか。
そして、貧しい国々もまた、パワーバランスの上に立っている。そこに平和を見出しているのだ。
力の均等による平和。それはアメリカ・ソ連の冷戦時代から続いてきたスタンダードである。それはいまでも、世界の平和のスタンダードではあるまいか。だから、安保法案が当たり前に見えるのではないか。
日本は、戦後70年を平和に過ごしてきた。軍事的パワーバランスがなくてもやってこれたと思うだろう。でも、そこには、米軍によるパワーが存在し、対立する相手もいなかった。そして世界の関心は中東であり、宗教の中心地であり、原油という金の利権もあるのだと思う。日本など、辺境のことはひとまずだれも気にしていなかったのではないか。
銃を持つ人々は、そこに平和を納める力があると感じて戦い、勝ち取っているのだと思う。それが正しいかどうかは別として。パワーを持つことによって、相手が動けないくなると考えているのだ。

日本はどうだろうか。
なにもなしに平和だと感じているのかもしれない。銃社会ではない平和を実現した国。
何もしないことが平和の道だと思っているのかもしれない。憲法をたてに、どんなリスクがあろうとも戦争を放棄するのだと。逆に法案が引き金になると考える人たちもいるかもしれない。れは今、パワーバランスは崩れないと考えているからなのか。

ある日、中国やロシアや韓国が、これは「侵略」ではないと言って侵攻してくるかもしれない。
そんな時、私たちはやっぱり自衛隊を頼るだろう。
これは侵略だと騒いでも、私たちの親族や肉親、自分自身さえ殺されているかもしれない。アメリカ軍だって、自国の利益を優先して行動するのだから、決して私たちの思うようには動かないかもしれない。「侵略」でないなら仕方ないよねなんて。
それでも、耐え忍んで平和を望むのか。私はそれほど聖人君子ではない。妻子が危ないとなればやはり怒り狂い、銃があれば戦うに違いない。日本のためでなく、妻子のために。
あるいはまた、日本に来るタンカーやほかの船をとめてしまうかもしれない。それにより日本は苦しんでも「昔戦争した国だからね」といって正当化するかもしれない。今は全く違うのに。そういうことは起こらないのだろうか。そういう可能性のあるなしを教えてほしい。

外国諸国は、パワーバランスの平和だと感じているだろう。
力による均等。飽和だ。
今の世界はまだ、そんな状態なのだろう。
世界から銃がなくなり、対立のもととなる宗教に頼らなくてもよいくらい人々が自信に満ち幸せに暮らせたらどんなにいいだろう。
国々が会話を続けて、国境など管理のための区切りでしかなく、世界の情報と富と知識をみんながそれぞれに享受できる世界、そうなることを私は望んでいる。
でも、今はまだそこには至ってはいない。
イマジンを歌っても、また道のりは遠い。ただ、なにも知らないよりは、そういう世界を望むことは大切なことだが。

銃によるパワーバランスによる平和を考える人たちと、戦争をするリスクが増えるのではないか、今の平和を守れという人たち。
私はどちらがリスクが減らせるのがわからない。

ただ、すべてを安倍さんのせいにするのはいかがかとも思う。
個人攻撃してすべてが解決するわけでもない。法案そのものをきちんと考えるべきではないか。
いまの、反対運動はなんか少しおかしさも感じるのだが。ただの風潮・流行に惑わされることなく考えたいと思うのだ。




posted by まっちゃん at 20:16| 福井 ☁ | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月18日

民主主義の限界を感じる選挙だった。



いいのか悪いのかわからない。
「民意を問う」という時点で、私は民主主義、あるいは数が正義ということにどうにも違和感を感じる。

勝ったほうも、結局は課題を突き付けられた感じで69万人が不満を持っていることを突き付けられたという。
同じように違和感を感じている人が多いということではないか。
69万人の民意はどこへ行ったのか。
ただ、選挙に勝てばそれでいいのか。
勝った負けただけで勝敗を決する問題なのだろうか。
そういう問題でないのならば、じゃんけんのような決め方でいいのだろうか。

たとえば総数100の選挙だとして、51対49でも、51のほうが勝ち。99対1でも、99の勝ちとなる。
その差はどうなのだろう。48という物の民意は活かすことはできない。

そして、99対1だとしても、99が間違い、1だけが正しいということだってあるのである。

じつは、それだけに政治家の責任は重い。
多数の代理人であるのと同時に、その1人の正しさを知る必要がある。そして、1の意見が正しいのであれば99を説得し理解させる必要があるのである。
自分の答弁まで人かに書かせたり、自分の質問さえ役所の職人に書かせたりでは責任があるのかとさえ疑問に思う。

代理民主主義だからこその厳しさがある。何でも、民意を問えばいいというものではない。
逆に民意を問うべきことを問わずに進める危うさもある。たとえば原発がそうだ。
徹底的な議論も情報開示もされていない。
フクシマの原発が廃炉になるまで40年かかる。なぜなのか。
今、原発が動いていなくても、金がかかり危険度は減らない。
日本で廃炉を進めているところの現状は知らない。まして、高濃度放射線廃棄物は行き先がなく、廃炉が進んでいったとしても今の原発の敷地に新たな仮の貯蔵施設が作られ保管されるだろう。日本の仮置きばはすでに70%埋まり、もう余裕はない。
そういった事実がきちんと公表されているのか。
そしても民意は60%は原発反対なのだ。

利権や一部の人だけの既得権益や、現状だけでのことを考えるのでなく、この国の未来をありようを考えてほしいと思いのだ。

別な話だが、橋下氏を見ていてふと思う。彼は政治家を辞めたがっているのではないか。それは以前から私がそうではないかと勘ぐり続けてきたことだ。ずいぶん前からかれはやめたいと考えていたのではないか。
政治家は、1度やったらやめられないとも聞く。
でも、人々の欲や利権に振り回されて疲れるという気がする。
権力という魅力があるのと同時に、人として擦り減っていくのかもしれない。
彼はやめて、自由な立場で発言していく立場を選ぶのかもしれない。そのほうが気楽なのかもしれない。それを選んでいくような気がする。


posted by まっちゃん at 11:09| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月16日

過去は取り返せない。だから、とどめておく必要がある。

韓国で「日本が王宮の気脈を断ち切るためソウルに造った建築を撤去」というニュースがあった。
反日に凝り固まった韓国では、日本が作った過去の遺物は目障りで仕方がないのかもしれない。ただ、あちこちにたくさんあるのですべてを壊しようがないらしいが。

これでふと思ったのが、タリバンによる仏像破壊。あるいはISILによる遺跡破壊である。
宗教や政治とそのきっかけは違うかもしれないが、やっていることは同じである。今の人が気に食わないから過去の遺物を破壊しようというのである。
なぜ、それがだめなのか。
過去の遺物というのは、歴史の生きた証人なのだ。
何が起こり、実差にどうだったのかを伝えていく。それは歴史であり、文化なのだ。それを残せるだけの文化があることが文化の高さを証明できる。そして、それは過ちを繰り返さないための道標であり、また、過去がどういうものであったかを示してくれる時の遺産であるのだ。

たとえば、アウシュビッツが保存されている。
ユダヤ人からすれば強制収容所後は痛ましい記憶でしかないだろう。しかし、それを遺す事で過ちを犯してはいけないという教訓と、残忍なことがここで行われたという記憶の証人となる。
また、日本には古墳時代から江戸時代のものが多数残されている。それは自分たちがどうやって生きてきたかの証人であり、それを肌で感じることの出来る貴重な資料だ。
たとえば大仏が造られたなら、その大きさを実感し、その頃の文明でこれを造るにはどれほどの財が必要だったかを考えることが出来る。国家を考え、文化がどう流れて育ってきたのかを感じることが出来る。
それが、私は偶像崇拝を認めないからと壊してしまったらどうだろう。
私たちの子孫は、それを知る機会を失ってしまうかもしれない。映像と文献は残るだろうが、もし、それが規制されてしまったら終わりなのだ。
自分たちに都合のいいことも悪いことも、後世に残せるのならば残していくべきなのだ。
それば学問という意味だけではなく、実際に足を運ぶことで、その時代を感じ考えさせることが出来るのだ。

エジプトのピラミッドがある。
私たちは映像で見るだけだが、実際に旅行してみれば川との距離、海との距離、ヨーロッパとの距離、風土、風のにおいに至るまで、そこがどういうところであったかが分かるのだろう。そして、どうしてこんなものが造られたのか、その技術や人の力、国力までをも考える源となる。

そういう過去の遺物を、ただ自分たちの感情や時の政権の都合だけで破壊しなかったことにするというのは悲しむべきことではないか。

日本の軍艦島が世界遺産に指定されるという。それを韓国が反対している。なぜか。朝鮮人が強制的に働かされていたところだからという。
もっと、時代的には指定されている年代がずれているし、戦時中に強制的に働かされていたといっても日本人もみんな同じだったわけで朝鮮人だけが被害者ではない。それに朝鮮もまた日本だった時代であり、日本人として同じように働く必要があったのだろう。それを隠したいから反対するならともかく、もし、自分たちが主張する強制労働という事実を後世に伝えていかなければならないと思うならば、世界遺産に指定されることは喜ばしいはずなのだ。一緒に保護されるべき証拠ではないのか。
むしろ、そういう歴史も一緒に保護してほしいと日本政府に頼むべきではないのか。
それを一時の感情だけでとやかく言うのは筋違いだし、文化というものの認識が低いのではないかとさえ思ってしまう。世界遺産や遺構というものが名誉だけだと思っているのか? そこには歴史を伝えるという意があるのではないか。
タリバンやISILと同じでいいのか?

ある友人が言った。漢字を捨て去った国だから仕方がないよと。
今の韓国の人は漢字が読めないらしい。だから、過去の歴史文献を読むことが出来ないともいう。
それほど過去を捨て去りたいのに、過去にこだわってばかりなのはなぜなのだろうとふと思う。



posted by まっちゃん at 08:39| 福井 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月11日

個人をさらす時代から、個人を守る時代へ

ツイッター、フェイスブックが減益しているらしい。閲覧数が減っているともいう。
ブームが終わったんだなとも思う。

とにかく最初は投稿することばかり考えていた。なにか、情報を発信したいと。でも、普通の人にそんなに発信する情報があるのか?
それで、個人をさらす、受けを狙ってさらす。本当はどうでもいいことまでさらす。

読者もだんだんつまらなくなっていく。
企業の宣伝ばかり、自分の宣伝ばかりでつまらない。そう思うようになる。

ヨーロッパで忘れる権利というのが裁判で認められたとかなんとか。これは探索結果に反映した話だが、どうだろうか。
自分の生活を切り売りしてまで、FBやツイッターに投稿することにもつながってはいないか。
そのうち、SNSをしないほうがかっこいい時代が来ると思う。
必要な時だけFBやツイッターに載せる。
身近な人が身近な情報をつたえるツール。
価値観を共有できる人が、行動に共感する。そのためのツール。

それは個人を守るために使われ、個人をさらすことは少なくなっていくのではないか。

現在も、ツイッターには閲覧者に制限をかけることができる。FBも、友達のみに情報を伝えることが出来る。そういう人から、「お誘い」という形でイベントが紹介される。
大きなイベントではなく、小さなあつまり。気心の知れた人が新しい友人を紹介する。

得体の知らない人とつながることは少なくなるのではなかろうか。

ビジネスモデルとしてはどうなるのかは知らないが、個人が疲れない程度の小さなコミュニティの連続体になっていき様な気がする。
posted by まっちゃん at 10:30| 福井 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月08日

右傾化といわれて思うこと。日本はもっとひどい時代を生きてきた。

いつもふと、思うことがある。
韓国が20万人の慰安婦だと言い出したり、日本が右傾化していると言い出したり。中国も日本が軍国主義が復活してると言い出したり、まるで日本はずっと昔から今に至るまで変わらないのだと思い込んでいるのではないか。

戦争でひどい時代を経験しているのは、韓国や中国ばかりではない。
日本の一般市民だってそうなのだ。

日本はアメリカやイギリスの軍隊よって徹底的に打ちのめされている。
日本を襲った空襲は無差別殺人であり、日本は焼け野原だった。
200以上もの都市が焼かれた。空襲警報が鳴れば、片田舎であっても防空壕に逃げ込んでいたはずだ。
100万人が命を落とし、970万人が被災した。働き手の若い男たちは戦地で命を落とし、残された子供や老人、女性が空襲で家を失った。
学校では勉強どころではなく、校庭まで畑にして食べ物を作っていたのだ。
満足に食べるものがなく、雑草まで食べたという。つらい時代だったと当時の人は言う。
勉強しようにも教科書がなく、先輩の教科書を手書きで写して学んでもいる。
女学校の生徒が山の中で開墾をし、いもを植えたのだ。それが日本の姿だった。

終戦を迎え、学校制度が変わり、民主主義とはなにかを先生たちが学び生徒たちに教えた。占領軍の指導もあり、いろんなことが試された。

そして、日本は焼け野原から復興するのだ。
福井は空襲があり街が焼けて、復興したかと思ったときに大地震に見舞われたが立ち直り、不死鳥の町と言っている。福井にはフェニックス通りもある。
でも、考えてみれば日本中がそうだったのではないか。福井は大地震に見舞われたけれど。日本は不死鳥のごとくよみがえる。

昨日の敵を友とし、先生とし、今を生きることに必死だった。すべてを否定するのではなく、受け入れ、明日を作ることに力を注いだのだ。だからこそ、復興がなされ今がある。あるいはそれは日本人だから出来たことかもしれない。

日本は日本の国土を焼け野原にしたアメリカやイギリスを責めたりはしていない。もちろん敗戦国だからだが、それでも自業自得であると運命を受け入れ明日を切り開いてきたのではないか。いつまでも恨めしいことをいっていても仕方がない。
日本は焼け野原から復興し、せっせと戦争の賠償をしてきた。
私たちにはそういう過去がある。

そして、もうひとつ、日本は江戸時代という平和な時代を経験している。戦国時代を過ぎ200年以上を戦いのない国で過ごしている。これは世界でもないことなのだ。そして米の生産は上がり、小藩に分かれていたからこそ特産品が生まれた。世界で一番の識字率を誇ったのもその時代だ。江戸はおそらく世界一の都市でだったがり、そこに流れている川は飲むことが出来るほどきれいな川だった。
士農工商という区別はあったが、武士は農民や町人を守るために存在し支配者階級ではないのだ。民のためによい政をするのが本分なのだ。
明治維新のときは、どこの国の属国にもならず独立し、西洋を学んだ。
戦争で好景気もあったが、太平洋戦争で戦争に負けるということを体験した。
どん底から這い上がった。そこに今がある。
日本人のどこが好戦的であるのだろう。それで痛い目にあってきたことをよく知っているのに。
再び日本を焼け野原にしたいと誰が思うのだろうか。
そして、だれが支配者になりたいと思うのだろう。

朝鮮には坂本竜馬がいなかった。だから、統一した独立のチャンスを失い朝鮮戦争というアメリカ・ソ連の代理戦争に巻き込まれる。
中国は国民党がずさんなためにアメリカが手を引き、それからたくさんの小競り合いを起こしている。

日本は戦後70年、どこも侵略もせず、焼け野原を復興し平和に過ごしてきたのではなかったか?
韓国や中国に悪口を言われるたびに、私は眉をひそめる。
私たちは自分たちの力で復興し、賠償もしてきたのではなかったか?
自分たちの文化を守り、新しいものを吸収し、暮らしを築いてきたのではないか。

先祖を敬うのは結構だが、過去に囚われて未来を作れないのではだめだという気がする。







posted by まっちゃん at 13:36| 福井 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月01日

この国のマスコミのカ・タ・チ

ネットという世界で膨大な情報が流れる。
いろんなニュースがあふれる。そして、実は、それぞれに表と裏がある。意見は一つではない。

そこでふと思う。
この国のマスコミの形は進化しているのだろうか。

反論すれば、反対すればいいのか。
もちろん、それも重要だろう。
対論がなければ、反対論を述べてはいけないなどという気はない。いけないものはいけないのだし、じゃあどうするかは改めて考えていいものだろう。

でも、この国の報道の形は偏っている気がする。
たとえばアメリカでの首相の演説。あれがアメリカではだめだとする報道がされた。では、あのスタンディングオベーションはなんだったのか。その理由は示しているだろうか。そのうえで、ダメだと言っているのだろうか。
反対に、あの演説が大いに評価されて、歴史の分岐になるという報道さえある。

また、おわびをしていないから駄目だというところもある。
では、なぜ韓国におわびをしなければならないのか、理由はあるのだろうか。アメリカ向けの演説で。
それはなぜ?
そこまで踏み込んで示している報道はあるのか。

韓国の人たちが反対デモを行った。それは事実。でも、それはアメリカの大きな流れではない。大きく取り上げるべきことなのかどうか。で、実際にそれはアメリカではどいう意味を持つのか。

慰安婦が本当はどうだったのか検証する集まりには人が少なかった。反対に慰安婦の権利を叫ぶ集まりには人が集まったという。どれだけ? 
それは弱い者を助けようという意識は働いているのではないか。

反対に、安部首相の演説を妨害するための新聞広告への寄付は、目標額を下回っている。

では、どういうことなのか。
それをきちんと検証して報道しているところはあるのだろうか。

50年も、報道の形は変わっていないのではないか。
何も学んでいないのではないか。

いい取材とはなにか、どんな視点が大切なのか、時は流れていてサンプルはいくつもあるのに、いつまでも反対だけで興味を引こうとしていないか。

とても疑問に思うのだ。
posted by まっちゃん at 13:02| 福井 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月30日

韓国って変

安部首相がアメリカで演説を行った。アメリカは経済的にも安全保障的にも大事なパートナーであるからだし、いままで演説があまり行われてこなかったほうが問題なほどなのだ。
この演説はアメリカと日本に対するものであると考えるのが普通だろう。
はっきりいって、貿易や文化交流などもアメリカに貢献しているのは韓国よりも日本じゃないのかという気もする。

で、韓国がどうしてて出てこなくてはならないのか。
アメリカに対する演説に、韓国のことをどうして出さなくてはならないのか。そのほうが異常ではないか。
韓国ではも関係のない国で日本のことを非難しているので、どこの国でも主張するのが当たり前だと思っているのかもしれないが。

おわびをしろという。
日本は、歴代総理が過去40回以上もおわびを口にしている。

補償しろという。
日本は、公的にも民間的にも何億ドルものお金を渡しつづけているし、それでてきた女性のための基金があるはず。それで韓国とはこの問題の決着はついたということになっている。政治的に。
もし、お金が支払われていないのならば、韓国政府に言うべきではないのか。

おわびをしろという。
その一方で、いくらおわびをしてもダメだという。

もう、これはおかしすぎる。
なんでここで韓国がしゃしゃり出なくてはならないのか。
事実関係がどうのこうのという前に、異常さを感じる。
中国の反日は政治であり、得だと思えば親日に切り替えられるそうだ。対する韓国の反日は宗教となっている。事実がどうあれ、日本がただにくいとしか見えない。

韓国がおわびをしろという。ではその韓国は、ベトナムでの大量虐殺、ベトナムの人を使った慰安婦に対しておわびをし、補償をしたのだろうか。
では日本は、いまだに苦しんでいる原爆や、何十万人も殺された国土に対する空襲に対して、補償とおわびをアメリカに求めただろうか。
日本は、過去のことは仕方がないとして、そういう戦争や原子爆弾は非人道的であることを経験しているからこれから繰り返すなと言っているだけなのである。おわびではなく、協力して戦争や核兵器を臆していきたいと言っているだけなのだ。

悪口を言い続けられていい気はしない。
それが日本人の感情だろう。
そんなに嫌いなら、断交とまではいかなくても無視してくれればいい。
それが普通だろう。
日本のことをとやかく見る必要もない。
貿易を縮小し、在日韓国人を引き上げさせればいい。
それだけのことではないか。
日本では韓国製品を売りません。
それだけでいいではないか。

ずっと嫌いと言われ続けて、親しみを感じていたのにもう感じることができなくなっている。それが日本人の本音だろう。
そして、次に来るのは無関心だ。
なにを言っても無駄ならば、もういいや。
うざい。
戦争のことよりも、これからどう仲良く、新しい未来を作っていけるかだろう。
今の若い人ならそう思うに違いない。
そして、今の日本は戦後派、戦争を知らない子供たちが引っ張っている。
70年というのはそういうことだ。
もう、戦争の記憶はない。
過去の亡霊にとらわれる暇はないのだ。


別に私はいままで嫌韓じゃなかつたし、昔はこだわっている昔の人はいるだろうが、若い人はこだわらないだろうと思っていた。でも、どうやら違うようだ。何か言えばただ反発されるなら無視するしかないと普通の人は思うのだが。





posted by まっちゃん at 09:59| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月26日

最近、韓国の記事が少なくなったなぁ。

そんな気がする。
韓国の前大統領が竹島に上陸したり、今の大統領が告げ口外交したりというのは、韓国が自分たちが日本より上になったと思ったから、目下の者を攻撃、というか反撃してやると思ったからだという。
日本は、どっちが上だとか下だとかあまり考えていなくて、お互いしんどい時は助けあいましょうよとか、面白いところがあるなら行くよ、ドラマが面白いんなら買うよという感じだったのだと思う。
ところが一変して日本が悪いと言い立てられる。
日本では戦後は遠くなっていて、戦争のことでとやかく言われるとはあまり思っていなかった。
どちらかというとお互いに未来を向いていると思っていたのではなかったか。
それが、仏像は返さない、新聞局長は拉致したまま。好き勝手やっているのは北朝鮮と変わらないようにさえ見える。反日教育はいっそうひどくなる。韓国の文化レベルというのはひょっとしたらまだ幼いのではないかと、みんなが思う。
そこで出てきたのが「嫌韓」だったのかもしれない。
お前たち人のことを悪く言うけれど、そこまで発展したのは誰のおかげだ、あるいは、訳の分からないいちゃもんをつけるな、歴史を正視していないのは韓国だとか、危機の時に助けたのに恩を仇で返すのかという具合だ。それがエスカレートして、韓国人はでていけという話になった。もともと、悪口をいい続けられたらいい気はしない。一般人の感覚はそんなもんだと思う。私も一般人だから。
で、韓国の経済は悪いっていう話で盛り上がり、いつ破綻するのだという話になる。実はもう破綻しているという話すらある。それは韓国国内の経済新聞というのかそういう機関が実はもうマイナス成長で、雇用を創出したと言っても安定した正社員が増えたわけではなく、若者失業率は目も当てられないと書いている。経済政策を行うべき大統領がなんの手も打っておらず、「韓国経済は可哀想」などど他人ごとのように言ったというニュースまで流れてくる。日本で言わなくても韓国自身で疑念を抱いている。
実際のところ、国レベルの経済が「嫌韓」の騒ぎくらいで左右されるわけもなく、長年のつけが表面に出てきたというところなのだと思う。

それよりも、韓国自体のニュースが減っている。そんな気が最近している。
いい話も悪い話も、小さな話もあまり入ってこない。さすがに大きなニュースは入ってくるが、昔ほど目につかなくなっている。それはマスコミが故意にそうしているのか、あるいは人々はもうそれほど関心がなくなったということの現れなのか。
日本人は流行に敏感で、自分の懐で日本流に変化させていく。
しかし、もうどうでも良くなると関心が薄くなっていく。
今やISILや、アメリカ映画や、あたらしいテクノロジーで満腹なのだ。オリンピックを控えあたらしい都市が出来、あたらしい店ができる。そして自分たちの景気は良くなっていくことに期待を寄せている。100円バーカーよりも、600円で心の満足を買おうと言う方に関心が向く。

韓国の冬季オリンピックの準備が進まないからといって、自分の国でできるといったし、援助は断ると言ってきたんだし、悪口ばっかり言ってる国をなぜ助けなきゃならないんだとも思われる。それ以前に、「だからなんだ?」としか思わなくなっている。どうでもいい国でしかなくなっている気がする。韓国が思うほど、日本人はこだわらない。もう流行は過ぎた。韓国はすでにみんなの心の満足を満たしてくれそうにない。韓国のドラマが受けたのは、心の満足を得られたからだ。テレビを見ていて「ああこの人達は、日本を嫌いって言っているんだな」とおもったら、満足なんか得られない。もういいや。
せこいようだが、人の心なんてそんなものだ。
日本人は善人かもしれないが、聖人ではない。
そんなふうに見えてくる。
また告げ口外交でもすれば韓国に注目はむくだろうが、それはもう反発しかうまないのではないか。

商売で言う「10年かかって築きあげてきた信頼でも、1秒で崩れる。それを元に戻すには、とてつもない努力が必要だ」
別に、自分たちが勝手に思っていた「格下」に戻れというのではない。同等の国として、お互いを尊重して敬意を払っていくしか戻れないのではないかという気がする。
ただ、関心を戻せと言っても、なかなか難しい気がするのだ。
posted by まっちゃん at 12:06| 福井 ☁ | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月20日

スタートレック!! スタートレック!!

スター・トレック イントゥ・ダークネス [DVD] / クリス・パイン、ザッカリー・クイント, ベネディクト・カンバーバッチ (出演); J.J.エイブラムス (監督)宇宙大作戦 シーズン1<トク選BOX> [DVD] / ウィリアム・シャトナー, レナード・ニモイ, ディフォレスト・ケリー, ジョージ・タケイ (出演)

古いスタートレックの映画を借りてきた。もう何回見ているのかわからないけれど、突然見たくなる。今回は、『スタートレック・イントゥダークネス』が面白かったからだ。前作も好きだったけれど。
借りてきた映画は、正体不明の巨大な敵が地球に迫り、提督となっていたカークが船長に復帰して危機を脱するというものだった。壮大すぎて少々難解な物語だったかもしれないが、当時は評判になったものだ。
特撮も当時としては高水準だったに違いない。テレビシリーズからすれば、雲泥の差だったかもしれない。たぶんミニチュアを使いモーションコントロールカメラで撮影されている。
今はほとんどがCGになっており、古臭い特撮に見えるのは仕方がないけれど、まぁ、それすら楽しいものに思えるのだけれど。

で、この物語、スタートレックの世界がどうして好きなのかふと考えたのだ。

宇宙もの、それもシリーズもので愛されている作品は「スターウォーズ」と『スタートレック』だろう。
この二つの世界は大きく違っている。
スターウォーズは、舞台を宇宙に持って行っただけで、ホースオペラ、西部劇なのかもしれない。神話世界から語られている物語の骨子を宇宙に持っていただけ。完全にファンタジーである。だから、とても古い物語なのかもしれないし、遠い未来の話なのかもしれない。
それはそれでいいと思う。でも、異世界の物語のだ。
対する『スタートレック』は、もちろん冒険譚なのだが、それとは違い科学的な匂いがぷんぷんするのである。スタートレックの船は清潔である。それは、今の宇宙船と通じるものがある。
映画ではカークがシャトルで、宇宙ドックにあるエンタープライズに乗り込む。どうやって動いているのかは不明だが、でも、ドッキングハッチやそのドッキングに今の宇宙船の流れを感じるのだ。また、その内部も、今の映画と比べればちゃちなのだが、(なんせ1979年の映画だもの)今の宇宙船やISSから感じるものと同質なものがあるような気がする。ジェミニ・アポロ・スペースシャトルが過去にあるという感じがするのだ。
しいて言えば、宇宙空間が正しく広がりを持つた空間として感じることが出来るのだ。まぁ、宇宙空間では星はまたたかないのだが、またたいているよなシーンもあるのだけれど。
新しいスタートレックの映画も、やはり宇宙空間を感じることが出来る。宇宙空間で音がまったくしなくなるという表現が今回もあった。また、古い宇宙船の模型がが並んでいるというようなカットもあったような気がする。

スターウォーズが、神話世界であり、宇宙船は人がつぎはぎで作れるように感じる世界であるのにたいし、スタートレックは昔の作品も、新しいパラレルワールドの今回の物語も、地球の科学が正しく発展していった世界を引き継いでいる。それは、昔語りやファンタジー世界とSFの世界との差なのだろう。

私はそれを確認したかったのだ。
そして古い映画も、それなりに楽しんでいる。
そして、私が好きだったボイジャーや、はやぶさに思いをはせるのだ。
こういう映画を見ていると、漆黒の宇宙に真っ白な宇宙船で飛び出していきたくなる。それははるか未来の物語だが、現実世界に近いためなのだと思う。


posted by まっちゃん at 21:45| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月19日

『「ガンダム」を創った男たち。』

「ガンダム」を創った男たち。 上巻 (カドカワコミックス・エース) [コミック] / 大和田 秀樹 (著); KADOKAWA/角川書店 (刊)「ガンダム」を創った男たち。 下巻 (カドカワコミックス・エース) [コミック] / 大和田 秀樹 (著); KADOKAWA/角川書店 (刊)

おととい、ニュースサイトで記事を見て『「ガンダム」を創った男たち。』上下巻を注文し、昨日息子とともに読了。漫画だからね。基本はギャグ漫画なんですが、なんかものすごく懐かしい。35年前の話ですからね。息子にも、ガンダムにも熱い人の歴史があったことを知って欲しかった。ただ、ガンダムが好きというだけじゃなくて、調べればどんなことにも歴史があり面白いということを知ってほしいなぁと。まぁ、ただのおたくを製造している気がしないでもないけど。

この本は、アニメがどうのという本ではない。戦争物の『宇宙戦艦ヤマト』のヒットがあったからとか、今までと違うロボット物の定義がとかという話ではない。そんなものは今までにいっぱい語られている。
ただ、ガンダムという未だに人々を魅了するコンテンツが産まれた35年前、携帯電話もネットもない時代に、それを作り上げ、広げていくクリエイターたちの物語であり、その熱意、発想の物語なのだ。それは、何時の時代でも変わることがないかもしれない。
時代がガンダムを創ったのか、ガンダムが新しい時代を作ったのか。それはよくわからない。でも、それから以降のアニメの形を変え、人々の意識を変える。
もちろん手塚アニメや、ジブリも日本が誇るアニメ文化の礎であるだろう。だが、子供向けのロボットプロレス、おもちゃのためのCM番組が大人が文化を語るまでのコンテンツに変容していったのはどうしてなのか。
たかがロボットアニメの話ではある。でも、そこに今だに世界を動かしているコンテンツを作り上げたクリエイターたちの歴史がある。人の歴史は私を魅了してやまないのだ。
そして、既成概念にとらわれず、なにか新しいものを創りだそうとする力。その歴史を、息子に読ませたかったのだ。
戦国武将や偉人だけが歴史ではない。今もまた、いろんなところで歴史は作られている。
何かを言われなくては、何も出来ない子どもたち。でも、自分の好きなモノを見つけて、なにかを作り上げてほしいとも思う。へたこれるなと、ただ、思うのだ。

posted by まっちゃん at 11:59| 福井 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月12日

ガラケー派ですが、なにか。

国内の携帯電話の売上が、スマホよりもガラケーが伸びているそうな。そんなのあたりまえじゃないのか?

猫も杓子もスマホスマホと言っていたけれど、そんなにネットやってんの? 電話とmailだけなら、今までの携帯でいいじゃん。通話料も安いし、何より電池のもちがいい。
そりゃ、ちょっとは外出先でネットで調べ物をしたいことはある。でも、そんなの一年に何度あるだろう。車にはカーナビも付いているし、目的地がわかっているなら前もってネットで調べておくだけだ。
スマホが全て便利なわけじゃない。
世の中の人がみんな写真をとっているわけでも、ラインを使っているわけでもない。むしろ、電話機能がアレば充分と思っている人は多いんじゃないだろうか。ゲームなんかはなからしない。というか、スマホのゲームって安っぽい。
そう考えれば、今までの携帯で事足りる。
それに気がついたら、不便なスマホにどうしてこだわらなきゃならないのか?
少なくとも、私の生活はスマホがなきゃ不便ということにはなっていない。


posted by まっちゃん at 09:54| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月24日

「フェイスブックは伝染病のように消える」、研究者らが大胆予測



なんとなくわかる気がします。
ひところ流行ったツイッターも、つぶやく人ががくんと減った。毎日必死でつぶやくことにつかれたというか、なんでつぶやかなアカンの? という疑問が生まれたんだと思う。それが連絡Toolの代わりになっている人や、基本的につぶやくのが好きな人は使っているし、それを眺めるのが好きな私のようなものは使ったりするけれども。
FBも、一頃熱病のように書込していた人も、最近ではおとなしくなった。書き込んで、だからなんだというのだという気分になっているのかもしれない。
企業系の宣伝に使っている人はこまめに書き込んでいるけれど、あとはいつでも読める掲示板というか、そういう使い方が多くなった。こういうことやっているよとか、これどう思う程度の軽い書き込みで充分というか。
もともと友達とつながることが目的ならば、必死に書き込むような努力をするよりも電話で済む。

無くなりはしないかもしれないが、使い方は変わっていくのではないかと思う。情報をな花したい人が書き込み、それを大半の人は眺めているというふうに。それが重要なToolではなくなっていく気がするのだ。

ゲームもそうだろう。
皆で参加することが楽しかったスマホのゲームは、それが楽しい人達には受けるだろうが、ゲームの質や奥行きを楽しみたい人にとっては、今までのゲーム機のほうが楽しいだろう。それと同じことだ。
通信で多人数と楽しむゲームが良いならばそういうゲームばかりになりそうだが、そうではない。PCによる参加型のRPGがそれほど世間に受け入れられているとは思えない。

つまるところ、あたらしいものに皆飛びつくのだ。そして、それがどういうものであるか、理解したところで使い方が変化するのだと思う。

スマホだってそうだ。
携帯電話だけで済むのなら、通信費の高いスマホにする必要がない。だから未だにガラケーが売れているのだ。メールと通話だけが出来る携帯電話で、通信料が安いなら、そのほうがいいという人もたくさんいるのではないか。
タブレットで、公衆LANのあるところで情報を手に入れ、それを保存することで利用度を高め、あとの連絡は安い携帯電話で充分。

だからFBが今より利用者が少なくなったり、消えると言われても驚きはしない。


posted by まっちゃん at 13:42| 福井 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月22日

ゴジラと原子怪獣現る

先日、昔のビデオを見ていた。『原子怪獣現わる』というアメリカの昔の怪獣映画。1953年だから、ゴジラの前年ということになる。
ストーリーはゴジラと似ていて、北極だの水爆実験で目を覚まし、漁船などを壊しつつ、ニューヨークにやってきて未知の細菌をまき散らし、アイソトープ弾を受けて絶命する。
原作はレイ・ブラッドベリの『霧笛』。だが、原作のムードはみじんもない。霧笛は古代生物が、仲間の声のように聞こえる霧笛をしたって灯台に現れるという話で、古代生物の悲哀というものがとても感じられる作品だ。だが、映画は、ただのエンターティメントである。霧笛を連想させるシーンもあるし、どうしてニューヨークかといえばかっての生息地だったから仲間を求めてといえるのかもしれない。でも、やっぱり霧笛にはかなわない。
全体的には、科学者が死亡したりとか、ゴジラとの類似点もある。

それで今日はゴジラを見た。1954年版。ちょど今から60年前の映画だ。仕事しながらのチラ見だが。
昔は、夏休みになるとNHK教育テレビ等で繰り返し放送されたものだ。後に敵対する怪獣などが出てくるようになり正義の味方っぽくなってしまったが、初代のゴジラはまるで違う。
そして私も年をとって、見方がかなり変わった。
ゴジラとは戦争であり、災害であるのだなと思う。
破壊される街の中で、母親が子どもたちを抱きしめながら「もうすぐ、お父様のところに行くのよ」と子どもたちに言う。お父様は戦争で亡くなったのだろうか。
ゴジラに街を壊され、あまりの惨状に感情を失った子どもたちが描かれている。母親をなくして泣き叫ぶ幼い女の子がいる。
希望を失った人間が描かれている。私はゴジラを見て、初めて泣きそうになった。
それを救うのは、人間をも滅ぼしてしまいかねない化学兵器。
それを作った罪深さ故に、科学者はともに命を落とす。
ゴジラは、ただの怪獣映画ではないという由縁が感じられた。久しぶりに見てみるもんだね。

今年、アメリカでゴジラの新しい映画が撮影されている。以前のゴジラは「ジラ」と呼ばれて、ゴジラとは似ても似つかぬものだっだけれど、今度のは予告編を見る限り期待できそうな気がする。




posted by まっちゃん at 13:46| 福井 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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