2012年12月28日

高い内閣支持率についてふと思う

ある新聞によると62%だったり、52%だったり。安倍政権の支持率はおおむね50%以上という感じだろう。20%の野田政権比べ期待度が高いことがわかる。
失礼な言い方だが、民主党の内閣よりも、安定感を感じることが出来るのだ。民主党は、何をしでかすが分からないという感覚があった。現実的に、高速無料化やこども手当など「いいんだけれど」どこからお金をもってくるのかわからない物が多かった。
脱官僚は分かるし、無駄な事業が多い事を見直す「仕分け」も評判をよんだ。
でも、今にして思えば現実感がなかったのだ。仕分けをしたら、きちんとその事業がどうなるのか追跡して確認していくシステムがなかった。(あったのかどうか知らないが、後の検証で姿形が変わっただけというのは評判になった)
そして、夢の言葉を連発して、結局は実質的な増税だったのではなかったか。
いつの間にか、子どもの税控除がなくなり、復興税がのしかかり、その上消費税増税だった。ガソリンは安くならず、高速道路は高いままで、どこに景気浮揚のカギがあったのだろう。
そこで国民の声を勘違いしていのだと言える。
福祉がどうのと言う前に、まずは基本的に景気が良くならなければいけなかったのだ。ところが民主党政権はのらりくらりと税金を上げることばかりに費やしているように見えた。この、見えるということが致命的だったのではないのか。

安倍政権が期待度が高いのは、景気をどうするかが最優先に見えるからだ。事実、苦しめられた円高が円安になっているし、株価も震災前の基準に戻っている。これがどれくらい続き、その景気回復が民間にまで波及することが期待されている。
景気が良くなって、日々の暮らしが楽になれば消費税が上がっても仕方ないとなるのだ。余裕がない段階で、税金を上げますと言って喜ばれるわけがない。

安倍政権で心配なのは、エネルギー戦略だろう。
日本の選挙では、政策に対する審判は下されてはいない。自民党に入れた人も、それで自民党が掲げた政策が全てよしと言っているわけではないのである。それは、比例にも表れている。小選挙区では良いと思っている人に入れるだけだが、政党としても自民党はそれほど信頼されているのかと言えば、どうなのだろう。

原発の政策に対しては半分の人が反原発を願っている。
800万人の署名があり、いまだにデモも行われているではないか。
原発に対してはNOと言っている人が多いのではないか。

現実問題として、原発はたかだか50年くらいしか動かないのである。その後の燃料の始末は計り知れないほどの時間がかかる。ちっとも現実的に優れたシステムではないのである。ひとたび事故を起こせば、全ての苦労が消し飛んでしまうようなあやふやなシステムにすぎない。何故こんなものを守らなくてはならないのか。
経済を減速させないために、ある程度の原発を何年か動かすことは仕方ないにしても、日本発の新しいエネルギー戦略をねるべき時期に来ているのではないか。
資源のない国が、資源国になる研究開発を今以上に進めていくべきなのではないか。実は、それが現実的なのではないかという気がしている。
原発をどうするのかというよりも、エネルギーの多様化、エコ化を進めていくべきなんだろう。むしろ、それをちゃんと謳うべきなんだと思う。

あともう一つ。石原氏はどうなんだろう。失言が多すぎる。きちんとしたブレーンをつけてやるべきなんだろうな。つまらない発言で国会が空転するのは、もう耐えられないと多くの人が思っているはず。

現実に根を下ろしつつ、きちんとした未来が見えるような政治を期待したいもんだ。


廃炉の方法、
posted by まっちゃん at 11:04| 福井 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月25日

民主党代表選挙にふと思う。

次の参議院選挙を誰で戦うかという事で、馬淵澄夫元国土交通相(52)と海江田万里元経済産業相(63)の2人が戦うそうな。
ああ、そうっていう感じなのだが、民主党が存在感を取り戻せるのかどうかということなんだろうな。

どちらにしても、民主党が議席を落とすのは間違いないだろう。それが多いか少ないかという事だろうと思う。
で、勝手なことを書いてみようと思う。個人的な想いだけなので、そうじゃないという人も当然いて、それはそれで構わないと思う。私の、勝手な意見ということで。

維新にしても未来にしても、議席数を伸ばせなのかったのは古い政治家と組んだ事が原因の一つではないだろうか。政治を変えると言いながら、古い政治家と結びつくことで、その魅力がそがれたような気がするのだ。
そして、百戦錬磨と言われる古い政治家が、その古い手法を使って、党の実権を握ろうとする。一般の有権者にとってはそれはフェアではないと目に映る。維新も未来も結局、古い政党と変わりがないじゃないかということになる。軒を貸したら母屋取られるというのはどうかと思うのだ。
未来は、生活とたもとを分かつべきだし、維新もたちがれ日本とは縁を切るべきだと思う。次の参議院選を戦うなら。
キーワードは若さと勢いと理屈だろう。何かを変えてくれるのではという、期待を持たせるべきだ。
小沢さんが嫌われたのは、疑惑があったからではなく、その手腕によるものだろう。もう、古い政治家はいらない。そして、なによりも、裏切った・嘘をついた政党はいらないのだ。信頼は積み上げだが、不信は一瞬で決まる。実はその流れは3年前から変わってはいないのではないだろうか。
そういう意味では、自民党は民主党よりましだと思われたのだろう。ここて、昔の派閥や、力関係だけで物事を進めたら、次の選挙で自民党はまた痛い目を見るのではないだろうか。そのてん理論がしっかりしている小泉進次郎は、大衆から好かれるだろう。

さて、民主党の代表選。これは単に私個人のimageでいえばなのだが・・・。
海江田さんは悪いけれど、泣き虫というイメージがある。
少々頼りない。ちょっと貧乏そうなイメージがある。
彼が出てくると、謝っちゃうんじゃないかという気がする。それはいいんだけれど、どう変革していくかという力強さに欠ける気がする。
馬淵さんはその点、若さがある。謝るだろうが、変革してくれるのではというイメージがある。

海江田さんが代表になったら、よほどうまくイメージを展開しないと民主党は大幅に票を減らすだろう。古い政治家はいらないのだから。橋下さん、小泉さんに共通しているのは力強さと若さと、論理の正確さだろう。海江田さんにそのイメージをもたせることが出来るのかどうか。
馬淵さんの場合、票は減るだろうが、まだ、イメージを良くするには使いやすい気がする。
失礼な言い方だけれど。

どちらがなるにしても、一度失った信頼を取り戻すのは並大抵ではない。
へたすりゃ、民主党自体が消えていく可能性だってある。
それを、どこまで回復させることが出来るのか。それには、国民がなるほどと思わせるリーダーが必要だろう。野田さんは、語彙こそ力強いがすることは逃げと開き直りとみられたのではないか。そして、うそつきとみられたのだと思う。
その点では、もし選挙が来年まで延ばされたら、民主党は姿形もなかったかもしれない。
逆にとっとと解散していたら、傷口はここまでひどくなかったろう。
菅さんの時に選挙をしていたら、みそぎ選挙と、反原発として民主党はまだ安泰だったような気がするのである。
そういう意味では、民主党には策士もbrainもいなかったのかもしれないな。



posted by まっちゃん at 11:27| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月22日

日本人はなぜ「マヤ終末論」に関心示さないのか。大きなお世話だっ。

ネットでニュースを見ていたら、、中国で「日本人はなぜ「マヤ終末論」に関心示さないのか」という評論記事があったそうな。
それによると、結局日本は自然災害が多く、そのためいちいち相手にしていられないのだそうな。
大きなお世話だ。というか、理解してないね。
地震や雨、台風などは、大昔から経験していることで今更日常的にそんなもの心配していたって仕方がない。
至って気楽なものだよ。日本人というのは基本的におおらかな部分があるもんだ。
そして、科学的裏付けがなければ信じるに足らないと考えているのではないかと思う。

日本で終末論として社会現象までなったのは「ノストラダムス」がある。これは、何冊も本がでて、「ノストラダムスの大予言」として色々検証されていて、さもそれが信じられるように書かれていたものだ。
これは、何十年も「本当だろうか」と人々の心をとらえていた。子どもの頃にその話を聞いて、その時自分が何歳になるかを考えいた人もいる。結局世界が終るのだから結婚などしても仕方ないと言っていたと思う。その後、信頼できる小説家の先生に「あれは、そういう事が書いているわけじゃないよ」と色々聞いて納得していたけれど。

日本人が騙されやすいものに「ニセ科学」がある。
有名なものが、「水からの伝言」だろう。これは、水にいい言葉をかけたりすると水の結晶が美しくなり、悪い言葉をかけると汚くなるというものだ。本まで出て、納得している人も多いと思う。本まで出ているから正しいかと言えば、実は正しくない。
水にどういう性質があるかは100%分かっていて、そこにそういう要素が入ることはないのだ。今では、地球が球体であることは常識だろう。いろんな科学的実験がそれを証明しているし、なによりも宇宙からそれを検証することもできる。水も実はそれと同じそうなのだ。
言葉の力によって結晶が変化することはあり得ないのだが、さもそうなったように見せかけることはできる。それによって、信じさせるというわけだ。
でも、それを道徳的に利用できるという人もいるようだが、間違った論理の上に成り立つ道徳こそ、非道徳的ではなかろうか。論理が否定されればそれをもとにした道徳も否定されてしまうのである。

とにかく、ノストラダムス以降も様々な終末論があり、どれも何も起きなかった。
マヤの暦に関しては、早くから注目はされていたが、そのニセ科学的な検証が不足していた。信じるに足る情報ではなかったというのが真実だろう。
たった一つの暦が終わるからと言って、終末は起こらない。それに、いろんな否定論があり、マヤの終末論自体がノストラダムスに比べても社会に浸透していなかった。まだ、原発が事故を起こせば日本経済は深刻なダメージを受けるだろうという方が信じられるのだ。

それに、明日世界が終るとしても、なにをするべきなのだろうか。
どうせ終わるのなら、なにをしても変わらないではないか。
私たちがノストラダムスで学んだのはそういうことだったのかもしれない。

だから、中国の論評を読んで的外れもいいところだなと思ってしまうのである。



posted by まっちゃん at 11:17| 福井 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月21日

選挙における維新の会についてふと思う

維新が思うような議席を確保できなかった。
それはなぜだろうと考える。
選挙の始まる前から感じていた違和感が、終わってからはっきりすることもあり、私はたぶんこうではなかったかと考えてみた。

もともと維新の会橋下氏が中心であり続けた。その魅力は、なんといっても若さだったろう。そして、既成概念の破壊だったように思う。それは、一種理路整然としていたように思える。それが魅力ではなかったか。

ところが太陽との党と組んで、魅力が半減する。
太陽の党も石原氏によるワンマンの党ではあるが、もとは「たちあがれ日本」。これは立ち枯れ日本とも揶揄された党だ。新鮮味もなく若さもない。そこに暴走老人が入った。
石原氏の発言もまた過激で失言が多い。そして、橋下氏と大きく違うのは、理路整然として理屈でなるほどと思わせるのと違い、説明をめんどくさがり、力で「うるさい」だのなんだので振り切ってしまうことである。
これでは、今まで若さや新しい理屈でなるほどそうかもしれないと思っていた人たちの賛同は得られないのではないか。
結局「うちの親父と一緒」だからだ。

政策的に近いなら、みんなの党と組むべきだったと思う。
渡辺氏も、まだ小粒ながら(失礼)若さと、納得させる理屈で政策を語る。ただ、それをみんなに浸透させるようなやさしさがかけているような気もする。独自色を打ち出そうとしていろいろ言葉を変えたりすることが、年配にはついていけない部分があるような気がする。
新しさはあるが、安定感を演出できないのではないか。

この選挙、いまさらながらだが勝とうと思っていたのなら、石原氏はもっと下がるべきだった。お互いに言いたいことを言いあっていたのでは勝てない。
石原氏は百戦錬磨の選挙人として、関東と維新に入れても大丈夫と老人たちを安心させる役目に徹しなければならなかったのではないか。石原氏は、維新の会のイメージを捉えられずに壊していたのではなかったか。
維新の会のイメージを捕らえる、それができなかった石原氏と組むことは、危険だと思う。

石原氏と組むことは、薩長同盟を実現させた竜馬と同じではない。それは竜馬が沈み行く江戸幕府と手を組んだみたいなものだ。

太陽とは手を切るか、それとも石原氏が自分の役割(党の重しとなっているだけ)に甘んじることができるかがこれからの維新の会が支持率を左右することになるのではなかろうか。


未来に関しては言うべき言葉がない。
反原発というクリーンなイメージに対して、小沢・生活のダークなイメージは相容れなかったと思う。それは政策ではなく、小沢と言うだけで嫌悪してしまう国民感情だ。古い政治を髣髴とさせてしまうイメージだ。
さらに、地方としての発信力がそがれてしまった。だからこそ、いま知事は窮地に追い込まれている。
彼女は滋賀県知事であることを活かすべきだった。
すばらしい滋賀を汚してしまう可能性をもっと打ち出すべきだったし、クリーンで美しい滋賀というイメージをもっと全国的に出して行けば、滋賀県からもあれだけたたかれることはなかったろう。そして「生活」から離れていれば、もっと、議員を確保できたのにと思う。それは政策の一致だけでは計れないものがあったのではないか。

自民に対して危機感を持ったのなら、有権者がどういうイメージを持って自分たちを見ているかを分析することが大事だったんじゃないだろうか。
終わってからだけど、私はそう思う。
posted by まっちゃん at 09:53| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月17日

自業自得なんだね



選挙結果を見て思うのが「自業自得」ということ。いくら政権に慣れてなかったとはいえ、やってる事ちぐはぐだったもんなぁ。野田さんはやるべきことはやると声は大きいけれど、国民感情を無視しすぎた感があるし。もともと、、民主主義の限界を感じた選挙でもあったな。愚民政治というか。

結局、3年前に政治を変わることを期待した人たちが失望し、自民党に入れたかと言えばそうでもなく、投票しなかったんじゃないのか? だから最低の投票率だし、それで決まった政府も実際には国民の半数にも支持されていないことになる。
選挙に行くことが国民の義務であり権利なんだろうけれど、有権者を責めてもだめだと思う。だって、入れてもいいと思うような政党がないんだもの。きちんと政治を変えて、任せられるという新政党があったらたぶん人気が出んじゃないのかな。
維新の会が昔はそれなりに勢いはあったけれど、太陽の党と結びついたとたんに疑わしい政党になっちゃった。そんな感じがする。

そして、周辺諸国はいきなり日本が右翼化すると思っている。
これも自業自得。
選挙がらみやなんやかやで、竹島を持ち出したり、尖閣諸島を自分の国だなんて言い出したから、日本はそうさぜるを得なかった感じがする。
もっと話し合える体制なり経済体制が出来てからすべきだったという気がする。
おそらく、そこをあいまいにしたまま、日本・中国・韓国と経済的なつながりを強くし、仲良くやっていれば世界経済にも大きく貢献できただろうと思う。中国は、昔の軍国主義の日本みたいに、領土を広げることばかり考えてますしね。もっとも、昔の日本は経済的につながるところを増やさなければやって行けなかったのかもしれないけれど。
そして、本当に右翼化するかと言えば、難しいところ。
中国韓国にはもっと物を言うことは増えるだろうと思うのだけれど、好戦的になるかというは別だと思うんだよな。

どちらにしても、「イマジン」を聴いてほしいもんだ。


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2012年12月11日

原電はなにさま?

敦賀原電の下に活断層があると、専門家たちが言った。
で、原電はおかしいという。

原電ってなにさま?
国より、強大な組織かなんか?

原発事故が起きたら、すべて元に戻せる財力も科学的能力もあるの? 福島原電でさえあの有様なんだけどな。

目の前の10円に目がくらんでいるとしか言いようがない。
国民の利益を無視しても自分たちの利益を守りたいのか?

原発はひとたび事故が起きれば、経済的にも大きな影響が出る。国として信頼さえ失う。
原発事故はそれほど大変なことだと福島原発で思い知ったはず。

だからこそ、原発は「疑わしきは廃炉」にしなくてはと思う。
「疑わしきは罰せず」は法の話。もし、原発が活断層で壊れる要素が少しでもあるのだとしたら、作ってはいけないと思う。白か黒。灰色は、全て黒にすべきだ。
国民に、リスクを無理やり背負わせてはならない。国民の利益と生活を守らなくてはならない。原電の利益だけを守るのはお門違いだ。知らないうちにリスクを背負わされている国民をきちんと守ってほしいもんだ。

むしろ廃炉の技術をきちんと確立してほしいもんだ。
使用済み核燃料をどうして処分するのか、きちんと考えて欲しいもんだ。
文句を言う情熱を、他に傾けるべきだとおもうがな。


posted by まっちゃん at 09:15| 福井 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月30日

橋下氏報道にふと思うこと。

思い上がった自民と、信頼を無くした民主が星のつぶしあいをしているなとおもったら、今度は未来。どうなるのかわくわくしている。
そんなわけで、いつも朝一番にいろんなサイトでニュースチェックをしているのだが、ライブドアのサイトでまだ橋下氏の例の問題がなにが問題だったかを検証する番組を放送するなんてのが載っていた。なんか、これっと「ネガティブキャンペーン」みたいだなと思う。まぁ、私は根がデブキャンペーンみたいなもんだが。
現在の部落問題について考えるということでいいことかもしれないが、どうかなとも思う。第一、今の若い人に部落問題と言ったってピンとこないし、それがなぜ問題になってくるのかもわからないかもしれない。
そっとして風化していけばいいんじゃないかと思う。

私の子どものころは、大きな街に行くと「解放」などと書いたビラが地下道に張られていたりもした。子ども心になんだこれと思ったものだ。意味自体が不明だった。
その後、ゆるゆるとその正体を知るのだが、学校で日本の人たちは平等で、昔のように身分の違いもないと教えられてきた事と現実にはほんの少し差がある事を知った。岡林信康の唄も知った。
でも、不思議だった。なんでいまさらそんな事を気にするのだろう。人は誰でも生まれるところを選べるわけでもないのに。
今の若い人たちは、そんな事を気にするだろうか。
まことしやかに、そういう地区や名前の書かれている名簿が出回っているのだとか聞いたことがあるが、今でもそうなのだろうか。昔は、年取った人が旅行中に「ここらは、ほら、あれだから」なんて教えてくれたこともあった。でも、そんなものに今は何の意味があるのだろう。もう人もどんどん入れ替わっているというのに。

だいたい、歴史上の有名な武将でもそういうところの出身者がいると聞いたことがある。彼のりりしい銅像なんかを見たこともある。まぁ、そういえば彼の子供のころを扱ったようなドラマは見たことはないのだが。知られている日本を変えた一人の中にだって、そいうい人はいるのだ。
出身と、人の能力とは別物だろう。

私はこういう問題を耳にすると、一人の友達を思い出す。
彼は、同級生にも人気のある男だった。私も彼の家に遊びに行ったり、結構悪いことも一緒にしてしまったこともある。それはそれで後悔したりしているのだが。
彼の彼女に付きまとうストーカーのような男を、なんとか遠ざけようと説得したりもしたことがある。
彼がそういうところの出身だとは彼自身の口から聞いたことはない。聞いたのは、周りの大人からだったように思う。でも、相変わらず私たちは悪友だった。そんなことは、なんの影響もなかった。
彼が勤めるようになってからはだんだん疎遠になっていった。彼は、高校を中退したので、若くして勤めるしかなかったのだ。

雪の降り始めのある日、家の近くでスリップして動けなくなっている車があった。ドライバーを見ると彼だった。スノータイヤを準備しておらず、なんとかゆるゆると走ってきたのだが、私の家の近くで動けなくなったのだ。雪は降り続き、このまま動けそうになかった。
私は、とりあえず私の家の空いているスペースに彼の車を入れることを提案し、朝になったらスノータイヤに交換して出ていけばいいと彼に言った。彼は最初は遠慮したが、最後にはそうすることになった。雪道のど真ん中に車を放置したらいい迷惑だからだ。助けを呼ぶにしても、迷惑がかからないところがいい。
友達だから、力を貸せるときには貸すのが当たり前だから、私は何も考えずに、二人で車を押して空きスペースに車を移動した。
次の日私が目覚めるとき、彼は車を取りに来た後だった。
その日、彼のお母さんが来て、菓子折を置いて行った。
高そうな菓子折を見て、私は妙に悲しかったのを覚えている。
友達なんだから「昨日はありがとな」だけでよかったのだ。「また、珈琲でも飲みに行こう」だけでうれしかったのだ。
本当にご迷惑をかけた申し訳ないと、彼のお母さんが頭を下げるのはなにか悲しかったのだ。
それ以来彼とは会っていない。

今でも彼が「よう」と声をかけてくれたら、私はうれしく思うだろう。
「元気か」と声をかけて、どこかで珈琲でも飲むかとか、家で積もる話でもするかと言うだろうな。

社会が彼らを区別するのだろうか、彼らが社会を拒絶するのだろうか。
なんのために?

橋下氏と某新聞社とのいさかいを、いまだに目にして悲しく思う。
そんなものは風化させればいいのだ。
出身なんて関係ない。
風化させてはならない歴史もあるが、現在ではその実態は風化させたっていいものもある。
まだ、こんなものがあるのだ。

私は彼に、また、気楽に会いたいと願っている。だって、友達だから。





posted by まっちゃん at 11:18| 福井 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月28日

政党乱立についてふと考える

まず、考えたのは日本の文化である。絶対的支配者がいなければ生き残れない、1神教の世界のヨーロッパやアメリカなどの諸外国と違い、国土が豊かな日本は様々な角度から物事をとらえていく。時間をかけるだけのゆとりがある。神々でいえば八百万の神が神の国なのだ。そういったところから、2大政党制なんて言う仕組みが日本に合うかというのは疑問だったし、第一政党政治そのものが合うのかという気もする。
政党制であれば、いくら民衆が政党を選んでも、政党そのものが立場を変換すれば民衆にはどうしょうもないというジレンマが残る。民主党政権がまさしくそうだったのではないかと、そういう気がしている。何かを期待したけれど、何も変わらず、自分たちの声が届いていないのではないかという疑念が生じたのだ。
つまるところ、同じような政治的姿勢・公約ではなく、色々違った考えがあり、それを表現しようとするとたくさんの政党が必要となるのだろう。だから、これは日本ではあるべき姿なのかもしれないとも思うのだ。
いっそのこと、政党政治をやめて、案件ごと選ばせてほしい気もする。原子力行政や、防衛、TPPや社会福祉、社会制度、景気政策など、それぞれ別個にこれはこの政党の考え方に賛同するけれど、他の政策については他の政党がいいなんて具合に。
政党政治の分かれ道に来ているのかもしれない。
日本独自の政治が確立されればいいなとも思う。

もうひとつある。「お上」とか「お役人」という考え方から脱していないという現実があるのではないか。
実は、昔の武士とは違い、議員を選んだり、お役人も一般市民から出ているのだが、そういう人たちが生まれた途端、一般市民は何もかもをそういう人たちに依存してしまうのではないか。その方が楽だからだ。
そして一般市民の代表だったはずの議員も役人も、上に立っていると考えてしまう。
これは、江戸時代などの士農工商といった職能区分が身分制度と考える事から発しているのではなかろうか。江戸時代に行政を考え、暮らしを守るのは武士だった。だが、それは権力を欲しいままにしていたわけではなく、民衆のために働くというのが武士の本分と考えていたからだと思う。だから、全く上がらない給料でも、藩を守り潤すために力を注いだのだろう。
幕末には、武士は困窮する。支配者階級という考え方ではないからだ。ヨーロッパのような人民もすべて王の所有物という考え方ではなく、人民を守るのが武士だったからだ。
町民や農民は、そのシステムの中で生きていく方が楽だったに違いない。言われた事をしていればよかったわけだ。難しい事はお侍さんがやってくれるのだから。
で、農民や町民がみんな貧しかったわけではないだろうと思う。贅沢禁止令が出たりするのは、贅沢が出来てそれが目にあまり、問題が起こる事を避けるためだったろう。
いつでも飢饉がおきていたわけでもなく、人が生きていけないほど年貢を取られていたわけではない。江戸時代初期と幕末では米の収穫量も、ぐんと増えているのだ。かといって、武士の給金が同じように上がっていたわけではない。だから困窮したのだが。
おそらく、勝手な想像かもしれないが、ある意味バランスがとれていた社会システムだったのだろう。だからこそ町民文化が花開き、日本各地にさまざまな特徴ある産業が在るのだ。

その時代の考えを引きずっている、あるいは明治政府が作り上げた「官」が正しく、今まで行政が間違っていたという考えが今なお一般の中に生きているのだと思う。
だから、政治家や役人が偉いと考えるのだ。それに乗って生きるのが楽なのだ。

でも、どうも違うのではないか。いまはそう考えるひとが増えてきているのかもしれない。
その表れが、政党乱立のような気もするのだ。

日本に合う政治組織とは何だろうと、考え始めているから地方から草の根のように政党が生まれているのかもしれないと思ったりもする。

どうだろうか。






posted by まっちゃん at 10:45| 福井 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月26日

大島優子、くわばたりえ、ネットの世界にふと考える。

映画『悪の教典』で大島優子が㈶後まで見ることが出来ずに逃げ出した事がニュースとなり、ネット住人から様々な意見が噴出した。
私も自主映画を作っているのだが、もし、自分の映画で同じような理由で出てしまう人がいたら「最後まで見て欲しかった」という気持ちと「それはそれでありだろう」とひとつの勲章のような気持ちとが入り混じるだろうなと思うわけで。
仕事だからそれは無いんじゃないかという意見もあるが、感情に訴える部分は人それぞれ。彼女が仕事を頑張っていないのならそうも言えるが、いろんなところで頑張って仕事はしているわけで。感情や気持ちまで、仕事に縛られてしまうのどうかという気もする。また、今回の場合、それがいい宣伝になっただぅなと言う気もするわけで。

これで思うのが、ネット住民の反応という奴。私もやはりネットの住民であることは違いないとは思うので、あまりとやかく言う立場にないのかもしれない。まぁ、中には誹謗中傷を楽しむ人もいるわけで。実際にはすごくいい人なんだけれど、ネットになると、その匿名性から、いきなりダークな面が全開になる人もいるだろう。でなければ、面白くないわけで、ちょっとした荒を探して文句を言う。私なんて誤字脱字の天才だから、「そんな奴が文句言うな」と言われてしまいそうだが。
私個人の意見だが、そういうことも「あり」なんだと思う。でも、それをいちいち問題視してあれやこれやというのがおかしいような気がする。そういうこともありなのだ。
そういう面では私はフェイスブックが実は苦手。素の自分をなかなかさらせない事もあるし、入れやこれやといらぬ情報やらご招待があったりして、実は「うざい」と思っている。いろんなイベントがあって、それぞれ来てほしいのは分かるけれど、やはりいけないのもあるし、行きたくないのもあるし、他の行きたいイベントと重なって行けない場合もある。そうした場合、招待してくれた人に悪いなぁとか、快く思ってくれないのではないかとおもうといやになる。
中には友達申請したのに認めてくれないから友達じゃなかったのかとか、いつの間にか友達をはずされたので悩んだり。
こんなことなら、始めるんじゃなかったと思うこともある。それで友達の大半はなにも書きこまなくなっていくのだなとも思う。ただ、他の人が何を書きているのか、眺めてはいるという話だが、それもまた、なんか本来の姿ではないような。
フェイスブックなり、ツイッターなりもあまり宣伝が増えると見向きされなくなるだろうなという気がする。そのうち。

で、今朝がたもいろんなサイトをぐるぐると回ってみると「くわばたりえ」のブロクで賛否がという記事があった。
何かなと思ってみると、別にブロクが炎上するようなことではなく、子育てしていく上で、自分がどうなのだろうと考えていることに対して、みんなか意見を言って考えいてるだけのことだった。子連れでファミレスに行ったとして、3歳の子供が駆け回り、乳飲み子が泣きだしたとき親はどういう行動を取るべきなのかというようなこと。
じつは、こういう話はいいことだと思う。私も子育て真っ最中だから思うのだが、やはり、自分たちではどうにもならない事もあるし行き詰ることもある。そんなときに、意見をもらえたり共感してもらえたりすることは助けになると思うのだ。これは匿名であっも実名であってもかまわない。同じような人と悩みを共有できたら、育児放棄や、虐待などもずいぶん減らせることが出来るではないか。
元モーニング娘の辻さんの、ウィンナー問題なんかは、別にどうでもいいことだとも思う。日の丸弁当しか食べさせてないんだったら問題だろうけれど、「どんだけウィンナーが好きなんだ」と言ったところで、そんなものは個人の自由だし、いろんな理由もあるだろうしね。こんなことでいちいち炎上なんて言って欲しくない。
つまりは、マスコミのニュース記事タイトルの付け方があまりに「変」なのではないかと思うのだ。

星の数ほどある情報の中から、これを見て欲しいからタイトルをいろいろ考えるのだろうが、あまりに不正確や、どうとも取れる表現などどうかとも思う。
そういういい加減なタイトルをつけているところが、ほんとうはまず炎上すべきなのではないかなんて、考えたりするのだ。




posted by まっちゃん at 11:06| 福井 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月22日

さかもと未明の騒ぎに思うこと。

子どもの泣き声がうるさいっ。それでとんでもない事を言いだして顰蹙をかっているのがマンガ家のさかもと未明と言う人。
まぁ、子どもの泣き声がうるさいのは理解できます。イライラって来るのもわかります。だって親だってそうですもん。夜寝てくれずに泣いてばかりいてくれたら、本当におかしくなりそうですもん。
泣くなって言っても泣くし、どうしていいのか一番困っているのは親。
親が大変なのはわかっているからこそ、みんな黙っていてくれているんですよね。ほんのひと時、お付き合いするだけですから。親はずっとですもの。
なるべく静かにさせたいんですけどね。親が必至なのは分かります。
親に文句を言ってもいいかなと思うのは、小学生からですかね。小学生なら言ってもわかりますから。それに、親がいい加減で、子どもが周りの人に迷惑をかけるというのもその頃ですかね。

日本は昔から、子どもは大切にされていました。江戸時代にやってきた外国人が驚くのはそういうところ。子どもはみんな丸々として幸福そうだと。
昔は、今と違って街の人みんなが子どもを育てていました。わたしだって、友達の家で食事をごちそうになったこともありますよ。遅くなったから食べていけって。
そんなもんだったな。

たぶん、昔の人が同じ飛行機に乗っていたら、誰かしらあやしに行っていたかもしれませんね。「あたしゃ、子どもを10人も育ててきたんだ。まかしておきなって」なんて言って。まぁ、着陸準備の時だからそれはそれで危ないかもしれませんが。

で、幼稚園くらいになると、かわいい子どもを見るとつい飴だのチョコだの上げたくなるものなんですが、これもまた難しい。
チョコは大人になるまで食べさせない主義だったりね。かなり昔ですが、やんわりと「すいませんが、うちの子はおやつを決めているので」なんて断られた事もありました。子どもは残念そうな顔をしてましたがね。それくらいいいじゃないのと思うのですが、それはこちらががってに思うこと。やはり親の意見は尊重するに越したことはありません。特にアレルギーなんてあったら、食べ物は制限されてますからね。

ううむ、です。

昔のように「街の子ども」というのはいなくなったのかもしれません。みんなが育てている子どもみたいな存在はです。でも、でもも、お互いに思いやりを持って接する心と言うのは、無くしていないのだなと感じました。

posted by まっちゃん at 17:09| 福井 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 事件に思う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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